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2006年7月

2006/07/05

なぜか複雑な思いが(7月3日)

 3日朝、昨日行われた滋賀県の知事選挙で、新人の女性候補が、与野党の枠を越えて相乗りの推薦を受けていた、現職の知事を破ったとの報道を見て、いささか複雑な思いがしました。

 この選挙は、3選を目指した現職が、自民・公明・民主の3党の推薦を受けたのに対して、京都の大学で環境社会学を教える女性が、実質的には、無党派で戦うという構図でしたが、結果は、圧倒的な組織力に支えられた現職が、3万票余りの差で破れました。

 首長選挙に出る者は、政党の推薦を受けずに、フリーハンドの無党派で戦うべきだというのが、自分の考え方ですし、過去5回の選挙でも、それを実践してきましたので、今回の選挙結果は、本来なら、諸手をあげて喜ぶべき出来事なのですが、なぜか引っかかる点が、いくつかありました。

 その一つは、県内の栗東市で、地元からの、多額の出費をもとに着工されている、新幹線の駅の建設を差し止めることが、主な公約になっていた点です。

 といっても、他の県のことですし、ましてや、事業の経緯も意味も知りませんので、その正否をとやかく言う資格はありませんが、住民の暮らしの全般に関わる、首長を選ぶ選挙では、もう少し前向きな話が、争点になってほしいものだと思いました。

 また、過去の例を見ても、何かの事業の中止を、公約に掲げて当選した知事は、その後、あまり長持ちをしていませんが、その理由の一つは、住民投票型の選挙が、本来の「組織」対「草の根」の選挙とは、異質な構造を持つからではないかと感じています。

 それに、今回の選挙では、くだんの新幹線の駅の建設費をはじめ、環境の悪化や、こどもの力を引き出せていない教育を、「もったいない」というキーワードにくくることで、有権者の心をつかんだとされていますが、もしそうならば、「郵政民営化は是か非か」だけを問うた形になった、去年の総選挙と同様の危うさを、内包してのスタートになります。 

 一方、僕の目に映る現職の知事は、全国の知事の中でも際立って、環境や福祉の問題に関心の高い方でしたし、特に、環境の分野では、菜種油を使った「菜の花プロジェクト」など、かなり先進的な取り組みをされていると、感じていましたので、その方が、いわゆる環境派のグループから、支持されていなかったとすれば、意外だったとしか言いようがありません。

 見方を変えれば、環境や福祉の問題に、熱心に取り組んできた知事が、旧態依然とも言える、政党の相乗りの舟に、安易に乗ってしまったところに、落とし穴があったのかもしれません。

 また、当選された大学教授の女性は、環境問題に関して多くの著作を出されていますが、「いくら書いても世の中変わらない」と、自らが、知事選挙に打って出た動機を語られていました。

 多くの方は、知事であれ市長であれ、首長の職に選ばれれば、大統領のように、かなりのことが、思い切って出来ると思われているでしょうし、確かに、首長の思い一つで、新しい動きを起こす一歩を、踏み出せることは間違いありません。

 しかし、その動きを、結果にまでつなげられるかどうかは、様々な、制度的または政治的な障害との、戦いにかかっていますので、ものを書いても効果がないから、知事になればと、単純に片づくものではないことを、1票を投じた方々には、是非知っておいてほしいものです。

 このようなわけで、いささか複雑な思いを持って、この選挙結果を見たのですが、当選した女性のインタビューの中に、最近目にしたばかりの、ある女性の名前を見つけました。

 それは、2004年に、アフリカの女性としては初めて、ノーベル平和賞を受賞した、ケニアの環境副大臣、ワンガリ・マータイさんで、当選後のインタビューの中で、「(選挙でキャッチフレーズに使われた)もったいないという言葉は、マータイさんの本で広がったんです」と、紹介されていました。

 実は、マータイさんは、1日に亡くなった兄が拝命していた、国連の、砂漠と砂漠化に関する国際年の、世界に4人いる名誉広報官のお一人なのです。

 このため、1日のこの欄でも触れた、兄が果たせなかった講演の原稿にも、マータイさんの名が登場していました。

 わずか2日の間に、マータイさんの名前に2回も接するのも、何か不思議な感じでしたが、選挙結果への複雑な思いを抱えながら、あの原稿を思い出して、兄ならば、今回の選挙をどう評論するだろうかと思いました。

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2006/07/04

シー・ユー・アゲイン(7月2日)

 2日夕方、都内の施設で、兄の通夜を執り行いましたが、祭壇の写真に向かって、心の中で、「いったんサヨナラだね」とつぶやきました。

 住み慣れた部屋で、ひと晩を過ごした兄の遺体を、2日の午後、家族みんなで棺に納めました。

 棺には、兄がこよなく愛した、剣道の肌着や手ぬぐいをはじめ、これも大好きだった、本や漫画も何冊か入れました。

 そのうちの1冊は、「大使閣下の料理人」という、西村ミツルさん作の、コミックのシリーズの25作目で、兄が予約をしていたものを、行きつけの赤坂一ツ木の本屋さんが、取っておいてくれたのですが、本を受け取りに行った運転手さんの話では、本屋さんが、おいおいと泣かれるので、もらい泣きをしてしまったそうです。

 そんな話を聞くにつけ、兄の死を悲しんでくれる、街の人がいることを知って心が和みましたが、そうこうするうちに、足袋をはき、きゃはんをつけ、三途の川を渡るための、通行料の六文銭も身につけて、旅支度が整いました。

 40年余りを、公人として尽くしてきた兄を、最後は、家族や身内だけで見送りたいと、お世話になった多くの方々には失礼をしましたが、通夜の場で、いとこ達に会うと、何やら千羽鶴をまとめています。

 聞くと、従兄の一人が言い出して、兄の回復を願う千羽鶴を折ろうと、親戚一同に声をかけてくれたということで、最初の思いは叶いませんでしたが、みんなの気持を、とても嬉しく思いました。

 こうして、心静かに温かく見送りが出来ましたが、祭壇の写真を眺めながら、いつかまたどこかで、一緒になれるだろうとの思いから、心の中で、「いったんサヨナラだね」と、シー・ユー・アゲインを誓いました。

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自慢の兄でした(7月1日)

 1日午後2時、兄龍太郎が、今の時代では決して長いとは言えない、68才の生涯を終えました。

 兄が入院していた病院の医師から、これまでは、何とか元気な姿でお返しすることを目指して治療してきたが、それが難しくなったとの連絡を受けたのは、先月27日の午後のことでした。

 28日から30日までの3日間は、県議会の本会議での質問が行われましたので、それを終えて、30日の最終便で、東京に向かいました。

 その足で、病院に向かうと、すでにマスコミ各社が詰めかけていて、危篤か容態の急変かと問われますので、入院した時から重篤な状態だと答えて、集中治療室に入りました。

 先月5日の早朝、電話の音で目が覚めると、電話の主は兄嫁で、4日の夜、兄が腹痛を訴えて救急車で運ばれたこと、5日未明に緊急の手術が行われて、大腸を切除したことなどの知らせを受けました。

 原因が何かはわかりませんが、突然腸に血がまわらなくなって、大腸が壊死してしまったとのことで、当初から、極めて厳しい状態だと受けとめざるを得ませんでした。

 そんな、激痛で意識が朦朧となるような、状況だったにもかかわらず、手術前には、5日に予定されていた、「砂漠化対策と農業振興」と題する講演のことを心配して、そばにいる家族に、「俺じゃないと出来ないんだ」と言っていたと言いますから、これもまた、兄らしい話だと思いました。

 こうした、持ち前の負けん気とバイタリティーで、一時は、「また来るよ」と呼びかけると、軽く手を挙げて応えるまでになりました。

 また、去年の総選挙の際、次男の岳(がく)が、兄の跡を継いで立候補したことに、兄は反対していましたので、「最近、岳の評判がすごくいいよ」と伝えた後に、軽い冗談を言うと、笑ったような反応を見せてくれたこともありました。

 最後の日は、入院から28日目に訪れましたが、これだけの重い病にもかかわらず、1ヶ月近くも頑張ってくれたおかげで、家族もそろって、心の整理が出来たように思います。

 臨終の場の前に、最後に、家族がそろって枕もとを見舞ったのは、1日の朝10時過ぎのことでしたが、この時も、何か今日のニュースを知らせてあげようという話になって、登山が好きだった、また、心臓の手術をするまでは、ヘビースモーカーで知られた兄のそばで、富士山の山開きやタバコ税の増税を、話題にするゆとりがありました。

 それからしばらくして、段々と血圧が下がり始め、苦しいことは何もなかったかのように、とても静かな最期を迎えることが出来ました。

 発病の原因がわからないままでしたので、病院からの病理解剖の申し出を、家族も快くお引き受けしましたが、医療や福祉の分野を、ライフワークとしてきた兄ですので、原因不明の病気の検体となることで、最期まで世の中の役に立てたと、満足してくれていることと思います。  
 
 15年前に、初めて、高知の知事選挙に挑戦をした時、応援に駆けつけてくれた兄は、「たった一人の自慢の弟です」と、僕のことを紹介しました。

 今、兄を見送るにあたって、その言葉を、「自慢の兄でした」と言い換えて、兄に返してあげたい、そんな思いを、マスコミ向けのコメントに綴りました。

 病理解剖という、最後のおつとめを終えた兄の遺体が、病院を出たのは、夜8時前のことでした。

 麹町にあった、以前の事務所に始まり、自由民主党本部、議員会館、そして、国会議事堂を一周した後、総理官邸、虎ノ門にある現在の事務所、さらには、慶応義塾大学から剣道の道場と、思いでの一杯詰まった場所を、1時間近くかけてまわりました。

 部屋に入ると、いつもながら雑然とした居間の机の上に、ワープロ打ちの原稿が置かれています。

 表題には、「砂漠化対策と農業振興」とあって、手術前に、自分でないと出来ないと気にしていた、講演の原稿であることは、すぐにわかりました。

 原稿の内容は、砂漠と砂漠化に関する国際年の、名誉広報官としての自らの役割に始まり、森林の伐採や行き過ぎた耕作などの影響、年々悪化してきている黄砂の問題、砂漠化がもたらす貧困とテロとの関わり、日本の食料自給率の低さや食品廃棄物の多さ、さらには、その対策としての、水資源や食糧生産、地球環境の重要性など、実に多岐にわたるもので、こんなに大切な仕事に打ち込んでいたのかと、あらためて見直しました。
 
 ところが、その原稿をめくっていくと、所々に汚れたあとがついています。

 「一所懸命、原稿に目を通しているうちに、気分が悪くなって、何かを戻したのよねきっと。ここは少し赤いから、血も出たのかもしれない」と、原稿についたしみを、兄嫁が指差しました。

 「その時、兄はどう思っただろうか」、「自分の体に何が起きたか、わかっただろうか」、「我慢強い男だから、やがて落ち着くと思って、じっとこらえていたんだろうか」と、思いはめぐりましたが、「この原稿は残しておきたいから、コピーをとって、お棺の中に入れてあげようね」と、兄嫁に声をかけました。

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県議会での質問戦(6月28日~30日)

 28日から30日までの3日間は、県議会の本会議で、9人の議員からの質問を受けました。

 この間は、一日を、そのことに集中しましたので、ブログはお休みをさせてもらいます。

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由緒ある企業とのご縁(6月27日)

 27日午前、県東部の奈半利町に進出が決まった、大阪堺市に本社のある会社の、社長さんらの表敬訪問を受けましたが、話の端々から、200年近く続く、会社の歴史を感じさせられました。

 この会社は、鉄などの焼入れや焼き戻しなど、熱処理と呼ばれる分野の、専門技術を持つ会社ですが、江戸時代後期の文化10年に創業した、葛籠屋(つずらや)という屋号の炭問屋がルーツです。

 炭問屋の延長で、コークスを扱っていたことから、第二次大戦中に、熱処理の会社に転身しましたが、そもそもの創業の文化10年は、今から200年近くも昔のことですから、出てくる話題の一つ一つが、歴史に彩られています。

 例えば、テレビの何でも鑑定団の出張鑑定が、堺市で開催された時、老舗なら何かあるだろうと、お宝の出展を依頼されたそうですが、お蔵の中にあった、松竹梅を描いた3幅の掛け軸を出したところ、これが狩野派の絵師の手になるもので、何と2000万円の鑑定がつきました。

 ただ、今では、3幅の掛け軸を並べて掛けられるだけの、床の間のある家がないため、市場価値はないという落ちがついていたそうですが、それでも、うらやましい話だなと思いました。

 また、炭の取引きを始め、高知との縁にも歴史があって、土佐藩士で、初代の大阪府知事になった後藤象二郎は、葛籠屋の縁戚にあたったため、府知事時代には、堺の店に投宿して、そこから馬車で知事公舎に向かったと言います。 

 さらに、同じく高知の出身で、三菱の創始者である岩崎彌太郎も、後藤を通じてのつきあいがあって、当時の葛籠屋の当主から、堺の商いを伝授されたそうです。

 こんな歴史と縁をもった企業が、高知に立地してくれることで、高知の物づくり産業にも、新しい歴史のページが、開かれるといいなと思います。

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間違えの上塗り(6月26日)

 26日午前、高知県の上海事務所長に、上海の知人に贈る、サイン入りの自著を託しましたが、ここに至るまでには、2つの間違えが重なっていました。

 その発端は、今年の5月に、中国の青島市を訪問した時にさかのぼりますが、同行してくれた上海の事務所長から、上海で仕事をされている高知県出身の女性に、先ごろ僕が出版した、「融通無碍」と題する本を贈りたいので、為書きとサインをしてほしいと頼まれました。

 相手の女性は、僕も所長も共通の知人ですが、名前の字体を、よく覚えていませんでしたので尋ねると、「三枝」だと言います。

 ところが、正しくは「美枝」だったため、先日、高知に一時帰国した所長から秘書課に、「名前が違っていたので直してほしい」という注文が入りました。

 ここからが、2度目のミスに通じるのですが、この本の中に、僕がおととし、県議会の議場で辞職願いを提出した際、あらかじめ書いていた日付が、一日間違っていたため、あわてて、漢字の「二」の2本の線の間に1本加えて、「三」に書き換えたというエピソードが出てきます。

 このため、この知人の女性からの注文は、「三」の上にちょんちょんをつけて、次に、「三」の真中に縦線を引いて、さらに、下に「大」の字を書き加えることで、「三」を「美」に換えてほしい、その方が思い出になるからというものでした。

 ところが、秘書課長の説明を、生半可に聞いていたのが間違いのもとで、「うん、わかった」と安請けあいをしたあげく、「三」の字を2本の斜線で見え消しにして、その横に「美」と書いてしまったのです。

 横で見ていた秘書課長が、「あっ」と言って、困った顔をしたのも後の祭り、あらためて、ご注文のあった直し方を聞いて、頭を抱えてしまいました。

 しかし、どう考えても、もうリカバーの仕様がありませんので、新しい本に、もう一度、「美枝」様宛ての為書きをした後、お詫びの手紙を添えて所長に手渡しました。

 せっかく、洒落た直し方を提案してもらったのに、早とちりで台無しにしてしまったと、いたく反省をしました。

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