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2006年8月

2006/08/28

明日からまたお仕事(8月22日)

 8月15日に武道館で開かれた、戦没者を追悼する祈念式典に出席した後、22日までの1週間は夏休みをいただきました。

 この間はずっと、長野県の蓼科で過ごしましたが、今年は、甲子園のテレビ観戦と料理番で明け暮れました。

 この日のうちに高知に戻って、明日からまた公務に復帰しますが、これだけ休むと、やる気を取り戻すのに、かなりの時間がかかりそうで気がかりです。

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「去華就実」が優勝(8月21日)

 21日午後、夏の甲子園大会で、早稲田実業が優勝しましたので、3日前に偶然気づいた、校歌の歌詞を再確認しました。

 早稲田実業という名前を始めて知ったのは、ソフトバンクの王さんが、甲子園で活躍した頃ですので、平安、中京商業、松商学園等など、古豪という名称が生きていた時代からの馴染みです。

 それでも、校歌の歌詞まで知りませんでしたから、僕が色紙を書く時に使っている言葉が、その中に出てくると知って驚いたことを、3日前のこの欄で書きました。

 延長15回の末、両者相譲らずという壮絶な試合の後、この日の再試合で、早実が初優勝を果たしましたので、今日はしっかりと歌詞を確かめようと、紙とペンを用意して待っていますと、「相馬御風」作詞というテロップが画面に流れます。

 僕の色紙のきまり文句、「去華就実」が出てくるのは校歌の最後の部分で、「去華就実のこの校風を、高くぞ持するわが健児」と、締めくくられていました。

 3日前にも書きましたように、この言葉を色紙に使うようになったきっかけは、偶然だったのですが、早実の感動的な優勝のおかげで、これからは、色紙をさしあげる時にも、「あの斎藤君の早実の、校歌に出てくる言葉です」と、胸を張って説明が出来ます。

 斎藤君、有り難うございました。

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最後の晩餐(8月20日)

 20日午後、夏休み中に出かけた、長野県の諏訪地方で、あるレストランのご主人から、知事選挙の投票日の直前に、現知事がお店に顔を出した時の話を聞きました。

 そのご主人は、以前からの知り合いですので、お昼をご馳走になったのですが、よもやま話の中で、先日の知事選挙を話題にしていますと、投票日の直前に、現知事がお店に現われたと言います。

 それは、夜の9時頃だったそうですから、その日の運動を終えてからということになりますが、疲れも見せずに午前1時頃まで、どの地区が情勢がいいとか、政治の裏側はこうだといった話を、エネルギッシュに語られていました。

 実は、このお店のご主人も、政治家の家に育った方ですので、選挙中に、夜遅くまでレストランで話をするくらいなら、明日の戦いに備えてはと言ってあげたかったようですが、それもかなわぬまま、この日が、知事としてはこのお店での、最後の晩餐になってしまいました。

 確かに選挙では、残りの1日・2日がとても大切ですから、午前1時まで話をしているよりは、早く寝て翌日に備える方がいいのでしょうが、あえてそれをしないで自己流を通すところが、良くも悪くも、現知事の頑固さなのだろうと思いました。

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主夫はつらいよ(8月19日)

 夏休みの期間中は、僕が食事の用意を買って出ましたので、19日も、夕食に一汁五菜を揃えましたが、それだけでも、家事を切り盛りするのがいかに大変かがわかりました。

 料理を担当して、まず大変なのは、何を作ろうかというアイディアと、下ごしらえの時間です。

 例えば、この日は、冷蔵庫にゆでた蛸がありましたので、蓮根と合わせて酢の物にしようと、薄くスライスした蓮根を湯がいたのですが、食べられる軟らかさにするのに、これほどの時間がかかるものかと驚きました。

 大根を煮る時には、初めに米のとぎ汁で煮ると良いと聞きますが、蓮根を煮る時にも、何か秘訣があるのでしょうか。

 こんな経験から、蛸でも大根でもジャガイモでも、事前に煮るという作業をしておかないと、いくら時間をかけても、肝心の料理や味付けまでたどりつけないことを知りました。

 また、野菜でも肉でも、妻と2人分だと一度に使い切ることは出来ませんので、残りを次に何に使うか、また、冷蔵庫に残っているもので何が作れるかを、いつも思い巡らしていないといけません。

 それに加えて、部屋の掃除まで担当しますと、それだけで、朝昼晩を通じて、ぼうっとしている時間はほとんどなくなります。

 家事全般となれば、この他にも、洗濯やら子供の世話やら、やるべきことは数限りありませんから、これは途方もない労働だとよくわかりました。

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こんなところに「去華就実」(8月18日)

 18日午後、夏の甲子園大会の、準々決勝で勝った高校の校歌の歌詞の中に、馴染みのある言葉を見つけてびっくりしました。

 それは、「去華就実」という言葉で、色紙などを頼まれた時に、よくこの言葉を書いているのですが、その言葉を使うようになった経過に、さほど深い理由があったわけではありませんでした。

 というのも、知事になってから、色紙などを依頼される機会がふえましたが、それまでは、毛筆を手にすることがほとんどありませんでしたので、何か書こうと思っても、適当な言葉が思い浮かびません。

 そこで、まずは言葉さがしから始めたのですが、あまりありきたりでは面白くありませんから、できるだけ人に知られていない熟語をさがしました。

 そんなある日、母校の中学・高校の創立100周年の記念誌を見ていましたら、その中に、学校の創設者が書いた額の写真が載っていて、「去華就実」とあります。

 出典は中国の古典とありますし、華が去って実を就けるのだから、意味も悪くないと思って、それ以来、揮毫を頼まれた時には、この言葉を使うようになりました。

 なるべく人の知らない言葉をという当初の目論見通り、「あまり聞かない言葉ですが、どういう意味ですか」と尋ねられることも多くて、そうした時には、わけ知り顔でお答えをしてきました。

 ところが、この日、夏の甲子園大会の準々決勝で、日大山形を破った、早稲田実業の校歌を聞いていましたら、歌詞の中に、「去華就実」が出てくるではありませんか。

 ただ、何気なく見ているうちに、いきなりこの言葉が出てきたため、前後の歌詞のつながりがわかりませんでしたので、準決勝や決勝でも早実が勝ったら、作詞者の名前とともに、言葉の使われ方を確かめようと思いました。

 それにしても、甲子園で勝者を称える校歌が流れる時に、テレビの画面に出る歌詞を見ることなど滅多にないのですが、これも何かの引き合わせでしょうか。

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一生をかけて守る(8月17日)

 17日午後、皇太子ご一家が、静養のためにオランダに出発される様子を見ていて、雅子さまのことを一生かけて守ると言われた、皇太子さまの言葉を思い出していました。

 今月6日に行われた、兄の法要と納骨を終えた後の精進落としの食事会で、天皇陛下の学友である従兄と同じテーブルになりました。

 話が皇太子ご夫妻のことに及ぶと、同席の別の従兄の奥様は、もっと雅子さまの自由にさせてあげればいいのに、あれでは可哀想だと同情的な意見です。

 これに対して、くだんの従兄は、「美智子さんは、もっと辛い試練をくぐり抜けてきたんだ」と、従来から変わらず、雅子さまには厳しい見方をします。

 僕は、どちらかと言えば、海外との交流といった雅子さまの特技を、うまく生かしていただく方が、あらゆる面で、ものごとが前向きに進むのではないかと思うのですが、そうは簡単にことが運ばない事情もあるのでしょう。

 ただ、オランダで十分に静養をされたとしても、数日後に紀子さまの出産を控えてのご帰国が、再び、どのような状況をもたらすのかと心配にもなります。

 と同時に、ご結婚にあたって、雅子さまを一生かけて守ると言われた皇太子さまは、今をどう受けとめられているのかと思いながら、オランダに出発されるご家族の姿を見送りました。

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社会部長が泊り込み(8月16日)

 16日午後、秋篠宮妃殿下が、出産に備えて入院されたことを知って、旧知のマスコミ人に話を聞いてみると、その社では、この日から社会部長が泊り込みだということで、お世継ぎ問題の持つ重みを考えさせられました。

 実を言えば、この日紀子さまが、東京の愛育病院に入院をされたとのニュースの扱いが、自分が感じているニュース・バリュー以上に大きかったため、何かあったのではないかと気になって、知り合いのマスコミ人に尋ねてみたのです。

 すると、別に心配されるような背景があるわけではなくて、もし男の子が生まれれば、将来のお世継ぎ誕生にもつながるという、ビッグニュースの前哨戦だと言います。

 聞けばその社では、いつその日が来ても迅速に対応できるようにと、この日から、社会部長が泊り込むとのことでした。

 そんな話を聞きながら、愛子さまを念頭に置いた、女性天皇の容認に向けた、皇室典範の改正論議を思い出すとともに、皇太子ご夫妻の胸中はいかばかりかと案じました。

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公人か私人か(8月15日)

 15日午前、靖国神社への参拝を終えた、小泉総理の記者会見を聞いていて、「公人」と「私人」の区別が、ひと昔前とは別の意味で、問われていることに気づきました。

 大臣などの靖国参拝にあたって、かつてよく言われた「公人」か「私人」かの問は、公人として参拝したのであれば、政教分離を定めた憲法に抵触するとの問題意識からでした。

 ただ、この点に関しては、参拝後の記者会見で小泉総理も言っていましたように、伊勢神宮に総理が参拝をしても、憲法違反との声が、さほど大きく出たことはありませんし、僕自身も、地元の英霊が祀られている、高知県の護国神社には、毎年春と秋の大祭の度に参拝に出かけていますので、この点での憲法上の問題は、すでに整理がついていると考えています。

 ですから、憲法との絡みで、「公人」か「私人」かが、あらためて取り沙汰される時代ではないと思いますが、この日の会見で小泉総理は、靖国参拝に反対する側の論拠は3つあるとして、憲法問題以外にも2つの点を挙げました。

 それは、小泉総理によれば、「中国や韓国に不快な思いをさせてはいけない」という批判と、「A級戦犯が祀られているから参拝すべきではない」という批判ですが、これに対する総理の主張を聞いていると、今や憲法との絡みではなく、その他の2つの点にこそ、「公人」としての立ち居振舞いが求められていることに気づきました。

 まず、中国や韓国の反応に対して総理は、「どんな国にも、1つや2つ意見の違いがある。それなのに、靖国に参拝するのが気に入らないと言って、首脳会談を拒否することが良いことだろうか。例えば、日本の国連安保理の理事国入りに反対されたとしても、私はそのことをもって、首脳会談を拒否はしない」と言います。

 確かに、日本の総理が日本の施設に行くのを、外国が批判するのはいかがなものかという問いかけは、日本人には受け入れやすい主張です。

 それだけでなく、一般論として、外国の政府や首脳が、わが国の固有の課題に干渉することに不快感を覚えるのは、日本人として当然の感情ですが、小泉総理が例に引いた国連安保理の理事国入りと、靖国参拝とが、同列に論じられるのかと言えばそうではありません。

 というのも、中国と韓国の国民には、わが国の侵略行為によって被害を受けたという、実感がありますから、両国の政府が、その感情と靖国の問題とを絡みあわそうと意図すれば、容易に絡みあう余地がありますが、安保理の問題には、そんな国民的な感情に関わるような背景はないからです。

 しかも、この問題に対する日本の国内世論は、賛否が相半ばしていますので、総理が靖国参拝の意思を示す限り、相手国としてはこの問題を、日本の国内を揺さぶる政治カードとして持ち続けることができます。

 もちろん、こうした政治的な駆け引きの損得だけでなく、かつて加害者であった国の「公人」として、相手国の国民の感情にも思いをめぐらすべきだと思いますが、そのことを横に置くとしても、この問題でいつまでも、相手側に政治カードを持たせておくだけの国益が、さらには、国際政治上のメリットがあろうとは思えません。

 このことを、「公人」と「私人」の視点でとらえなおしてみますと、現状の中で総理が靖国に参拝をすれば、外国の圧力に屈しない、骨のある政治家だというイメージは高まるでしょうから、「私人」としては、つまり政治家個人にとってはメリットがありますが、先ほども述べましたように「公人」の行為としては、わが国に、プラスをもたらすとは考えられません。

 もう一つ、総理が会見の中で強調したのは、「私はA級戦犯のために靖国に行くわけではないし、特定の人のために参拝しているのでもない」という言い分でした。

 そのことを説明するにあたって小泉総理は、「戦争に行きたくなかった多くの兵士がいる。だから、そうした犠牲に哀悼の意を表するために靖国に行くのだ。それなのに、一部許せない人がいるから、それより圧倒的な多数の人のために参拝するのがいけないというのはおかしい」と言います。

 ただ、この主張は、外国に横槍を入れられる筋合いではないという、わが国の国民感情を背景にした、中国や韓国の批判に対する反論とは違って、まったく納得しがたいものです。

 というのも、戦没者全体のために参拝をしているという言い方からは、戦争の時代を生きた多くの国民の中に、無辜の民を戦いにかり出した加害者と、その力によって、行きたくなかった(小泉総理自身の言葉)のに、戦地で散らざるを得なかった被害者がいるという認識が、完全に抜け落ちているからです。

 とはいえ、ここで加害者と言ったのは、戦勝国が戦争犯罪人だと認定をした、A級戦犯とイコールという意味ではありません。

 ただ、その中には、日本国民を戦争にかりたてた加害者として、中国や韓国からではなく、日本国民から糾弾を受けるべき人物が、含まれていることも間違いありません。

 だからこそ、戦後60年怠ってきた、日本国民の手で、加害者と被害者を区分けしていくという作業に、あらためて取り組むことが、「公人」としての政治家の責務ではないかと考えます。

 にもかかわらず、そうした「公人」としての役割をないがしろにしたまま、加害者と被害者を十把ひとからげにした上で、すべてを心の問題で片づけてしまおうという思考回路は、あまりにも、「私人」としての思いが勝ちすぎたものだと感じざるを得ません。  

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とにかく暑い(8月14日)

 14日午後、県東部の室戸市で開かれた、「海洋深層水フェスタ」に出かけましたが、舞台で挨拶をしているだけで、くらくらしてくるほどの暑さでした。

 このフェスタは、深層水を使った物づくりを手がけている企業のグループが、毎年この日に開いていますが、毎回、カンカン照りか大雨かのどちらかで、中途半端な天気の日がありません。

 この日も、ぎらつく太陽が降り注ぐ、南国らしい夏空で、テントの中以外に逃げ場のない会場では、日差しが痛く感じられます。

 そんなわけで、ふらふらしながら、どうにか挨拶をすませましたが、壇上に置いてある鏡割りのための樽酒が、そのうち沸きだすのではないかと心配するほどでした。

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沖縄からの客人(8月13日)

 13日午後、よさこい祭りの全国大会に参加してくれた、「琉楽座」という沖縄のチームの子供たちが、知事公邸を訪問してくれましたが、引率された大人の皆さんにはそれぞれに、沖縄県の知事選挙に絡んだ事情がありました。

 「琉楽座」は、エイサーなど、沖縄の各地に伝わる民俗芸能を核に、地域の自信とやる気を掘り起こそうと活動しているグループで、高知のよさこいのチームとも交流が進んでいます。

 このため今年は、よさこい祭りの全国大会に、小中学生を中心にした、「琉楽座」のチームが参加してくれたのですが、「彩(いろどり)」と名づけられた、今年から出来た新たな賞も受賞しました。

 ところが、事務局が忙しかったためか、渡された賞状には、受賞者の欄に名前が入っていませんでしたので、知事公邸を訪問されたのを機会に、僕が、「琉楽座」の名前を書き入れさせてもらいました。

 この後、子供たちと記念写真を撮ろうということになりましたが、引率の方々の顔ぶれを見ますと、これがなかなかの意味深なのです。

 というのも、公邸でのミニ・セレモニーの司会役を務めた女性は、現知事が誕生した際に、後援会の女性リーダーの1人として、頑張ろうコールや万歳の音頭をとった方ですし、「琉楽座」の代表を務める方は、次の知事選挙に、革新系からの立候補を表明している代議士の、秘書をしていたという経験の持ち主です。

 さらに、高知への訪問団の団長をされた方は、現知事が、今期限りでの引退を表明されている中で、有力な後継候補の1人と目されている方ですので、その話に水を向けてみますと、「うるさいので、逃げまわっているんです」との答が返ってきました。

 といったわけで、知事選挙を前に、なかなか面白い人間模様だなと思いながら、子供たちとの記念写真におさまりました。

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百年後の価値(8月12日)

 12日午後、高知市内のお掘に蓋をして、道路を作ろうという計画に、反対している方とお話をしているうちに、去年、東京大学で開かれた、環境デザインの会でスピーチをした際に、会員の方からいただいたお便りを思い出しました。

 この環境デザインの会は、主催をされている東大の先生が懇意な方だったため、是非にと請われて、20分ほどのミニ講演をしたのですが、その時には、高知県に文化環境部という名の部を立ち上げた際に、そこに込めた思いなどをお話ししました。

 その講演を聞かれた方が、そこまでの思いがあるのなら、都市計画の決定がなされているとはいえ、高知市内の横堀に蓋をかけて道路にするといった事業は、見直すべきではないかとのお便りを下さったのです。

 お便りは、国土交通省が、東京の日本橋の上空に首都高速を建設したのは、失敗だったと反省をしている時代に、お堀という歴史的な遺産をつぶして、道路を作るという感覚が信じられないという、手厳しい書き出しで始まります。

 続いて、小樽運河も門司港の内港も、そして油津の運河も、いずれも埋め立ての危機に遭いながら、それを中止することで、水辺を活かした、歴史的な魅力のある街として蘇ったという事例を挙げながら、高知県は観光立県を目指しているはずなのに、この事業は、歴史という最も観光に重要な遺産を、捨て去ろうというものだと指摘されています。

 あわせて、周辺の住民の皆さんは、お堀の価値に気づいていない可能性もあるが、小樽も油津も、かつては汚いドブだったので、高知でも、お堀を活かした街づくりは十分に可能だと綴られています。

 とは言え、お便りの主は、決して、環境保護や文化財保護に、偏った思いを持っている方ではなくて、むしろ、広い意味での土木の専門家ですので、一旦役所で都市計画決定された事業が、簡単には止まらないこともよくご存知です。

 このためこの方は、財政難を理由に方向転換することで、関係者のメンツを保つことが出来るのではと提案されていましたが、僕は逆に、正面から文化や環境の価値を打ち出していく方が、国には受けいれられやすいのではないかと感じています。

 と言うのも、知事になって間もない頃、海の中に巨大なコンクリートのケーソンを据えて、ヨットハーバーなどを作ろうという計画を中止した時、県の担当者は、環境を前面に出したのでは国の理解を得られないとの判断から、安全性を確保しようとすると、採算が厳しくなるからという理由を用意してきました。

 ところが、後になって、当時の運輸省の港湾技術部門のトップの方から、「なぜ最初から、環境問題を事業中止の理由に挙げてくれなかったのか。すでに国の事業として採択しているものを、いまさら安全性や採算性に問題があると言われることは、国として不名誉なことだが、今の時代に、環境をより重視して事業を中止することは、何ら不名誉なことではない」との、思いの丈を告げられたことがあったのです。

 先述の環境デザインの会でも、僕とともに、行政サイドから講演をされたのは、国土交通省の技術部門のトップの方でしたから、今や財政難よりも、文化や環境に重きを置いた街づくりを訴えることの方が、国にとっても、より受けいれやすい時代になっていると思うのです。

 高知市内では、県外の企業が落札をした、お城の近くの土地から、歴史的な空堀が見つかったという事例もありますので、これらを活かした、50年・100年をかけての街づくりの視点が、今求められていると感じています。

 などと考えてきますと、県庁の全ての部署で、文化や環境への配慮が仕事の基本になるように、文化環境部の果たす役割は、いささかも色褪せていないと感じました。
  

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同期からの手紙(8月11日)

 11日夜、家に帰ってみると、NHK時代の記者の同期から、僕が書いた本への感想などを綴った手紙が届いていました。

 彼は、1972年に、ともにNHKに入局をした同期で、すでに、この春定年を迎えていますが、今も、地上デジタル放送に関係した職場で頑張っています。

 入局から2ヶ月間の研修を終えると、彼は札幌、僕は福岡と、赴任先は北と南にわかれましたが、その後は、大阪の報道部から東京の社会部へと、同じ道を歩んだ仲でした。

 たまたま彼から、定年を知らせる挨拶状が届いたことから、この春僕が出版した、「融通無碍」と題する本を送ったのですが、わが家に届いたワープロ打ちの懇切な手紙には、長く同じ職場で過ごした同僚としての、懐かしい思い出が綴られていました。

 その一つは、大阪時代に三菱銀行の支店で起きた、お客さんと行員を人質にした立てこもり事件で、「融通無碍」の中では、現場中継の苦労話の一例として紹介していますが、彼の手紙によると、一番最初に現場に駆けつけた彼がラジオの中継をしていた時に、立てこもっていた容疑者の名前がわかったため、彼は、警察が発表した通りの名前を読み上げました。

 ところが、警察が発表した、下の名前の読み方が間違っていたため、銀行の中でラジオを聴いていた容疑者が、「俺の名前を間違って呼んだ」とわめいて、人質の目の前で拳銃を発砲しました。

 このため、あわてた警察が、名前を間違わないでくれと、現場まで言いにきたそうです。

 初めて聞く話でしたので、そんなこともあったのかと、当時を思い出しながら読んだのですが、彼の記憶では、当時現場で取材をしていたNHKの記者は、せいぜい5〜6人だったのに対して、読売新聞などは100人ぐらいを動員して、捜査員の片言隻句の情報を集めては、緻密な取材をしていたと言います。

 この他にもこの事件では、毎日新聞が、鑑識から入手した容疑者の写真をスクープするという、度肝を抜かれるような出来事もあって、お互いに、大阪ジャーナリズムのすごさを思い知らされたものでした。

 また、ともに東京社会部の記者として遭遇をした、日航ジャンボ機の墜落事故の際に、彼は局内にいて、事故の発生を知らせる一報の原稿を、19時のニュースに出稿したと言います。

 その後、まずは現場へという思いから、長野県の峠で朝を迎えたまでは僕と同じでしたが、こちらは、天候と道の悪さから、山に分け入ることを最初からあきらめて、現場に向かった後輩の帰りを、ただひたすら待ち続けていました。

 ところが、彼の手紙には、「現場に行くことも出来ずにあせったことを、今でも思い出します。あの時、闇雲に現場に行くのではなく、1〜2時間遅れても、いったん自宅に戻って登山装備を持ってくれば良かった、と今でも反省しています」とあります。

 若い頃から、彼にはかなわないと感じることが多々あったのですが、このくだりを読んでいて、あらためてそのことを実感しました。

 もう一つ、これは記者時代の共通体験ではありませんが、彼が、ある地方の放送局長になって半年後に、その県の知事選挙で、ある日突然立候補をした無名の候補者が、圧倒的に優勢と思われた現職を破って当選をしました。

 これによって、彼の言葉を借りれば、「知事と地元新聞を中心とする経済界が一体となって、色々なことを決めてきた旧来の構図」が崩れたわけですが、その後の展開は、彼の目には、記者の側が従来の守旧的な発想から抜けきれずに、新知事をけなしたりするばかりで、「知事よりも感覚が遅れている」と映ったと言います。

 「融通無碍」を読んでいて、次々とあれこれ思い出したという彼の手紙は、政治に携わる者は、常に自己革新をしていないと勤まらないという、メッセージで締めくくられていました。

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2006/08/23

纏はつらいよ(8月10日)

 10日夕方、高知の夏祭り「よさこい」の本祭で、高知工科大学チームの纏もちを務めましたが、纏の重さに、心身ともにへこたれてしまいました。

 よさこい祭りでは、知事になってからの10年余りは、県庁チームで踊りましたが、年を重ねたことに加えて、財政上の事情から、県庁チームが姿を消したこともあって、ここ数年は、もっぱら見る側にまわっていました。

 それが今年は、僕が理事長をしている、高知工科大学の学生から、是非とも工科大のチームで、纏を振ってほしいとの依頼を受けました。

 快く引き受けたまでは良かったのですが、仕事の関係で、練習らしい練習が出来たのは、本番前日の昨日の晩だけ、しかも当日までは、本番用の纏が準備できないということで、「くるくると回すときれいに見えますよ」などとアドバイスを受けながら、練習用の纏を使って、何とかそれらしい振りを身につけました。

 ところが、この日も、ぎりぎりまで県庁で仕事をしたあげく、予定のスタート地点に駆けつけてみると、心配していた通り本番用の纏は、練習用のそれの倍近くはあろうかという重みで、両手で持つのが精一杯、とても、くるくる回すどころではありません。

 それでも、腕力を振り絞って纏を上に上げれば、下りてくる時には、さらに重力が増すという有様で、振りを思い出す心の余裕を失うのに、さほどの時間はかかりませんでした。

 テレビでその様子を見ていた方からは、「泣き出しそうな顔だった」とか、「もうちょっと、颯爽とやってほしかった」など、有難いご批評をいただきましたが、今年こそと賞を目指していた工科大チームが、受賞できなかった原因の一つに、僕の纏がありはしなかったかと心を痛めています。

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心のとげを抜く(8月9日)

 9日午後、南国市の後免町の方から、「ごめん」という名前を活かした街づくりの、今後の抱負を伺いました。

 高知龍馬空港のある南国市の後免町は、先週、「まんが甲子園」の話題でも登場をいただいた、漫画家の「やなせたかし」さんが、子供の頃に暮らしていた町ですが、ご多分に漏れず、商店街は往時に比べて、見る影もなく元気をなくしています。

 このため、町の有志達が、やなせさんにお知恵を拝借したところ、高知特産のショウガを使った「ごめんしょうが飴」と、「ごめん葉書」の募集の2つを、提案して下さいました。

 このうち、「ごめん葉書」は、「誰にでも、ごめんの一言が言えないまま、心に引っかかっていることがある。その思いを、一枚の葉書に書いて投稿してもらおう」との狙いで、これまで3回の募集には、毎回、優に2000通を超える「ごめん葉書」が寄せられました。

 その葉書の本来の宛先である、「ごめん」を言いそびれていた相手も、父母や子供から、恋人や友達等々色とりどりです。

 ちなみに、前回の最優秀は、女学生の時、父親が雨のバス停に、傘を持って出迎えに来てくれたのに、友達の手前、野良着のままの父の姿が恥ずかしくて、冷たい素振りをしたという思い出の持ち主で、おとうさん、あの時はごめんねという内容でした。

 もともと、やなせさんからは、3回目が終わったあたりで、本にまとめてみてはどうかと言われていたそうですが、その思いがかなって、この秋には東京の出版社から、「ごめん葉書」が、一冊の本として出版されることになりました。

 もう一つ、面白いと思ったのは、「ごめん地蔵」を建てたいという話でしたが、発想のヒントは、お爺ちゃんやお婆ちゃんの原宿として名高い、東京・巣鴨の「とげ抜き地蔵」でした。

 ご存知のように「とげ抜き地蔵」は、様々な病を癒してくれる、霊験あらたかな地蔵菩薩ですが、これにあやかって、ごめんの一言を言いそびれたために、ずっと心に刺さったままのとげを抜いてくれる、「ごめん地蔵」はどうだろうかというアイディアです。

 と言っても、まだ話が具体化しているわけではありませんが、ただ単に「とげ抜き地蔵」の真似をしてという、あやかり商法ではなく、「ごめん」という町名を活かして、まずは「ごめん葉書」を、次にはそれを一冊の本に、そして、「ごめん地蔵」にとつなげていくストーリーの展開に、もしかすればという可能性を感じました。

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去年のこの日は(8月8日)

 8日午後、東京の武道館で開かれた、兄龍太郎の、内閣と自民党の合同葬で、会場に掲げられた兄の遺影を見上げながら、自分に向かって今、何を語りかけているだろうかと考えてみました。

 8月8日という日は、ちょうど1年前、郵政の民営化をめぐって小泉総理が、衆議院の解散に踏み切った日でしたから、次の総選挙には、出馬をしないと決めていた兄にとっては、40年余り務めた政界からの、引退が決まった日でもありました。

 そんなことを振り返りながら、武道館のアリーナに掲げられた、兄の大きな遺影を見上げていますと、数ヶ月前に、昨今の政界の状況を評して、「面白くないな」とつぶやいた時の、仏頂面が思い起こされます。

 政界と言えば、1年前に引退が決まった後、僕から見れば甥にあたる彼の次男が、総選挙への出馬を表明した時、兄は「やめておけ」と反対をしました。

 そこには、親が健在なうちに、息子が選挙区を継ぐことを、みっともないと感じる、兄独特の美意識や潔癖感があったと思いますが、それだけでなく、政治の世界が、息子に胸を張って勧められるような場ではなくなったとの、慨嘆も含まれていたのでしょう。

 その後しばらくして、兄の事務所で、甥の出馬の件を話題にした時、「ところで、君は、これからどうするつもりだ」と、僕に切り出してきました。

 その時は、こんなに早く、僕の前から姿を消すとは考えてもいませんでしたから、曖昧な答えをしましたが、下から仰ぎ見る兄の遺影は、何かを語りかけているようでもありました。

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2006/08/13

平和大使の居場所(8月7日)

 7日夜、世界各国の人形を、平和の大使に見立てた活動に携わっていた方から、人形たちの現状をお聞きしました。

 話は、戦前アメリカから、友好の印として全国の小学校に贈られた、青い目の人形にさかのぼりますが、日米の開戦とともに、これらの人形も敵性品として、文部省から廃棄を命じられます。

 そんな中、心ある校長の配慮で、戦後まで生き延びた人形が33体ありましたが、1970年代の末に、33体を一堂に会した催しが開かれました。

 その際、この会に出席されていた、当時の駐日アメリカ大使マンスフィールド氏の夫人が、「戦争は負けた国だけでなく、勝った国にも、悲しいことを一杯残します」という話をされたそうですが、それを聞いていた一人の男の子が、ここには、日本とアメリカの国旗しかないけれど、世界の旗があるといいね発言しました。

 その言葉に触発されて、国際児童年にあたった、その翌年、青い目の人形が贈られた時に、答礼の人形を作った経験を持つ、東京の人形師らの協力を得て、世界各国に、「大和太郎」と「大和花子」のパスポートを持った、男女一対の平和のための人形大使を贈りました。

 これに対して、最初に答礼の人形を送ってくれたのはイスラエルでしたが、それは、中東戦争などの時代背景を受けて、リュックを背負って逃げまどう、女の子と男の子の人形でした。

 最終的に、57の国から110体余りの人形が寄せられましたので、その時には、歓迎の式も開かれましたし、人形たちのための、館を建てる計画も持ち上がりました。

 ところが、その後、関係した方々が次々と世を去ったために、話は立ち消えになって、いつしか人形たちも、忘れ去られた存在になりました。

 このため、今その人形はと尋ねますと、当時、会の代表をされていたお話の主が、私費を投じて、美術品専門の倉庫に預けているとのことでした。

 ただ、最近になって、この話を聞いた地方の自治体などから、人形たちに、安住の地を提供したいという引き合いがあるということで、そうなれば、人形大使たちが四半世紀ぶりに、表舞台に顔を出すことになりそうです。

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テントを舞う蝶(8月6日)

 6日午後、先月1日に亡くなった兄の、三十五日の法要を済ませた後、父母の眠る、東京の墓地に納骨をしました。

 真夏の日差しが降り注ぐ、東京の青山墓地は、うっそうとした樹木の緑や生い茂る夏草が、子供の頃に、父母に連れられて来た、お盆のお墓参りを思い起こさせます。

 ただ、そんな昔のままの光景の中にあって、花屋のご主人のロマンスグレーと、墓石の高さを遙かに越えた、わが家のお墓のカイヅカイブキの背の丈が、父が他界してから40有余年の、年月の流れを感じさせました。

 直射を避けるテントの下で、兄の遺骨は、父と母のそれと並んで納められました。

 その時、テントの中に舞い込んできた一匹のアゲハ蝶が、納骨の様子を見守るように飛びまわっていました。

 納骨を終えて、参列者が一人一人お参りをしていますと、納骨の手伝いをしてくれた石屋の頭領が、兄嫁の側に来て、「石屋でございます、お心づけをいただきましてありがとうございました」と、声をかけてくれました。

 脱いだ帽子を片手に持って頭を下げる、いかにも律儀な立ち居振る舞いを見ているうちに、人と人のつながりがもっと深かった、40年余り昔の光景が、再びよみがえってきました。

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15年の年輪(8月5日)

 5日午前、高知市内で開かれた、県が主催する、高校生の漫画選手権大会、「まんが甲子園」の開会式に出席しましたが、今年で15回目という、年輪が感じられました。

 高知県は、アンパンマンの作者で、この大会の審査委員長をお願いしている、「やなせたかし」さんをはじめ、有名な漫画家が数多く出ている県です。

 このため、全国で、漫画に取り組んでいる高校生たちに、ハレの舞台を提供することで、漫画王国高知のアピールもしようという狙いから、1992年に立ち上げたのが、全国高校漫画選手権大会でした。

 あわせて、野球の甲子園大会にあやかって、通称を「まんが甲子園」と名づけましたが、「高校球児」ならぬ「高校ペン児」の熱い思いと、多くの方々の応援に支えられて、今年で15回目を迎えることが出来ました。

 大会は、全国でエントリーしてくれた高校が、出題されたテーマをもとに描いた漫画を、審査することから始まって、この予選を通過した高校が、高知で開かれる本大会に出場出来ることになります。

 本大会では、各校が1チーム5人ずつで、アイディア力と画力を競いますが、15回目となった今年の大会の、大きな変化の一つは、かつて漫画甲子園に、選手として出場した経験のある女性が、プロデビューをして、審査員として参加したことでした。

 聞けば、彼女の他にも、漫画甲子園の出場者で、その後、プロの漫画家になっている人が、何人かいるということですので、やがては、全ての審査員が、漫画甲子園の経験者という日が来るのかもしれませんが、「プロになった人は、何人くらいいるんだろう」と、担当者に尋ねると、「学校に聞いても、個人情報だからと、教えてもらえないんですよ」と、いかにも今風な答えが返ってきました。

 もう一つの変化は、大阪在住のアメリカの総領事から、アメリカでも日本の漫画は大変なブームなので、アメリカからの参加の可能性もさぐってみたいという内容の、心のこもったメッセージが届いたことで、早速、お礼の手紙を出すことにしました。

 また、お礼と言えば、開会式の前に控え室で、審査委員長のやなせさんにご挨拶をしますと、全国の4つの高校に、お礼の図書カードを贈ろうと思っていると言われます。

 何のお礼かと聞いてみますと、今年までの15回の大会に、毎回出場をしながら、予選を突破できないまま、高知の本大会には、一度も足を運べなかった高校が4校あるので、めげずに参加し続けてくれてありがとうという、メッセージを送ることにしたとのことでした。

 そんな健気な高校が4つもあったのかと、感激しましたので、知事からも、「是非これからもチャレンジを続けて下さい。いつか必ず高知で会いましょう」という、お礼の手紙を出すことにしましたが、これも、15年という年輪のなせる技かと思いました。  

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2006/08/11

「スーパーバンド」のメジャーデビュー(8月4日)

 4日午後、「スーパーバンド」という名前の、高知市内の女性デュオから、メジャーでの、CDデビューの話を聞きました。

 「スーパーバンド」と聞くと、スーパーマンのスーパーを連想しがちですが、このお2人の場合は、市内の同じスーパーマーケットに勤めているというのが、バンドの名前の由来です。

 この道の先輩は、愛称「ドラ」という、スーパーのレジ係の女の子ですが、そこに、愛称「ゴッチ」が加わって、「スーパーバンド」が誕生しました。

 ギターを手にした2人の、活躍の舞台は道端、つまり、ストリートミュージシャンとしてのデビューでしたが、やがて、マネージメントをしてくれる会社がついて、インディーズでのCDも、リリース出来るようになりました。

 その中には、骨髄移植が必要な青年を励ます、メッセージ性のある曲や、大手企業のPRなどが含まれていますが、そう難しくはないコード進行ながら、高音部には独特ののびがあって、聞く側に伝わってくるものがあります。

 そこからが、更なる努力の始まりで、そのCDを、月に1000枚売る目標と、500人のホールを満杯にする、コンサートの開催に挑戦しました。

 その2つの目標を、見事達成したところ、ビクターから、CDでのメジャーデビューの誘いが飛び込みました。

 先日、東京のスタジオで、吹き込みを済ませましたが、担当は、SMAPの音楽プロデュースもしたという人で、土佐弁の抑揚を注意されるなど、なかなか厳しかったようです。

 メジャーデビューにあたるCDの発売は、来月21日ですが、その後も、月2回の、市内でのストリートパフォーマンスと、スーパーの勤めは辞めないとのことで、「だって、スーパー辞めたら、スーパーバンドじゃなくなっちゃいますから」とのひと言は、至極ごもっともでした。

 また、作詞と作曲が、役割分担されているわけではなくて、どの曲も、2人で一緒に作っているということですので、作詞作曲はいずれも、「ドラ&ゴッチ」となっていますが、その話を聞いて、「売れた時に、著作権でもめないようにね」と、取り越し苦労をしておきました。

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いつまで知事をやりますか(8月3日)

 3日午前、夏休み企画の、こども県庁体験ツアーの第二陣が、知事室を訪問してくれました。

 これは、先月27日に、この欄で紹介した企画の第二弾で、この日も、高知市を中心に、20人を超える小学生が参加してくれました。

 今回、こども達の質問の中には、「原油価格の値上がりで、ビニールハウスを使う農家の、生産コストが上がっていますが、何か対策を考えていますか」といった、農家の息子さんならではの、切実なものもありましたが、一番答えに苦労したのは、「いつまで知事をやりますか」という、単刀直入な質問でした。

 というのも、実質4期目に当たる今の任期は、来年秋に切れるのですが、その後僕が、5期目に挑戦するかどうかは、一部の業界筋ではかなりの関心を引く、結構センシティブな話題だからです。

 ただ、小学生を相手に、禅問答のようなことは言えませんし、はぐらかした表現も出来ませんので、「来年の秋までは任期があるので、それまでは、辞めることはありません。また、その後、もう一度挑戦するかどうかは、まだ決めていません」と、ありのままを答えました。

 この日の夕方、高知市で開かれた、四国4県の県議会の、正副議長の会議の懇親会に招かれて、慰労と歓迎のご挨拶をしたのですが、その中で、この小学生からの質問と、それに対する僕の答えを紹介しました。

 もちろん、同じ受け答えを、そのままお話ししたのですが、さすが議会関係の会だけに、こども達の反応とは違う、微妙な空気が流れました。

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重い仕事(8月2日)

 2日午後、県の中央児童相談所で、職員と懇談をしましたが、質量ともに大きく変貌する、相談所の業務の重みを感じました。

 児童相談所といっても、福祉や医療・心理などの専門家だけでなく、一般的な事務の仕事から、相談所の担当に配属された職員が何人もいます。

 ですから、異動してまだ間もない職員の、「多い日には、1日に3件の虐待報告を受ける。まるで、ドラマのようでもあるし、これだけ多いのかとショックも受けた」という感想も、「ここに来てから、2人の子供に、いらいらして怒ることが少なくなった。2人がいてくれるだけで、幸せだと思えるようになった」という、親としての心の変化も、とても率直なものに受けとめられました。

 また、学校の教員から、相談所の勤務になった職員は、着任の日に、高知市内の病院に出かけて、その前日に、子供の目の前で手首を切った母親の、幼い3人のこども達の対応にあたった経験と、ある施設で、中学生の部屋を見せてもらうと、四方の壁一面に所狭しと、「死ね」という文字が、延々と書き連ねられていたことを、印象深い出来事として紹介してくれましたが、その話を聞いていて、果たして自分がその場にいたら、何をしただろうかと、容易に想像することが出来ませんでした。

 一方、児童虐待に関しては、このところ、連日かなり大きく報じられた、福島県内での事件でも、親が扉に鍵をかけて開けなかったため、家まで訪ねて行った職員が、中の様子を確かめられなかったという、事実があったようですが、そうなってくると、アメリカ流に、家の中まで、強権で踏み込めるようにすべきかどうかといったことも、真剣に議論しないといけない時代になってきたのではと感じます。

 あわせて、虐待にしろ非行にしろ、市町村や学校はもとより、地元の医師や歯科医師、さらには身内の福祉保健所など、お互いの連携がますます大切になっていますので、学校にソーシャルワーカーを配置してはという提案も、児童相談所の側から見て、是非にということであれば、考えなくてはいけない提案だと感じました。

 職員の一人が言った、「20年余り県庁で仕事をしてきて、今が一番働いている」という言葉には、実感がこもっていましたが、それだけに、心理判定にあたっている職員の、職場の仲間の中に、心の糸が切れる人が出ないか心配だという声にも、耳を傾けなくてはいけないと思いました。

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総裁選の前夜(8月1日)

 1日午後、出張先の東京でお会いした方から、昔々の自民党総裁選にまつわる、いかにもその時代らしい目撃談を聞きました。

 それは、今からおよそ4半世紀前に行われた、自民党総裁選挙を目前に控えた時期のことで、舞台は、東京赤坂の、ある料亭の大広間でした。

 次期総裁と目されている人物を、当時闇将軍と呼ばれていた、実力者のグループをはじめ、支援を決めた派閥の面々およそ50人が囲む形で、お銚子を手にした総裁候補が、一人一人の議員に頭を下げながら、お酒をついでまわります。

 その中には、今では野党の幹部になっている人もいましたが、どの議員も、ふんぞり返って、「おう」といった感じでお酌を受けていました。

 その時、まだ20代の前半だった目撃者は、その光景を目の当たりにする中で、これが、日本を動かしていると言われる人達の実像かと思うと、それまで、自分の生い立ちや経歴に抱いていたコンプレックスが、いっぺんに吹き飛んで、自分に自信を取り戻すことが出来たと言います。

 それに引きかえ、橋本龍太郎と小泉純一郎という、派閥力学だけの時代には、総裁にはなり得なかった人物が、相次いで総理総裁を務めたことで、総裁選挙前夜の雰囲気は、大きく変わりました。

 引きあいに出したお二人は、いずれも個性の強さから、毀誉褒貶がありますが、自民党の体質を、変えていくきっかけを作ったことは間違いないと、4半世紀前の目撃談の主との間で、意見が一致しました。

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自殺の前に図書館へ(7月31日)

 31日午後、これからの図書館が抱える問題を考える、パネルディスカッションに出席しましたが、図書館や司書の仕事に対するイメージがふくらむひと時でした。

 このパネルディスカッションでは、従来からある、無料で本を貸し出してくれる所といった、図書館のイメージを越えた機能や、公共サービスの評価にあたって、効率性だけでなく、効果の側面から、評価をする手法が考えられないかといったことが、テーマになりました。

 その中で、日本図書館協会の方が例に引かれた、アメリカの図書館のPRポスターの話は、興味深いものでした。

 それは、こめかみにピストルをあてた、男性の絵の下に、「自殺をする前に図書館へ」という、キャッチコピーが入っているもので、病気であれ、借金苦であれ、はたまた失恋や人間関係であれ、自殺の原因になった出来事に対処する術を教えてくれる、文学や専門書などが、図書館には揃っているという意味で、各種の情報提供の場という、図書館の持つ幅広い機能を、言い表していると言います。

 また、もう一人のパネラーの方は、「ソムリエ」と「司書」と「不動産屋」という3つの仕事を挙げられて、そこには共通点があると言われます。

 その心は、いずれも、数多くの商品知識を身につけたプロが、お客様の求めに合うものを、提供していくということなのですが、この話を聞いていて、思い出したことがありました。

 それは、記者時代に先輩から教えられた、「医者、記者、芸者は、接待3者」という言葉で、お医者さんは患者を、芸者さんはお客を、そして、記者は取材相手を接待して、人間関係を築くことから仕事が始まるという意味でした。

 そんな、パネラーのお話を聞いていて、どの業界にも、同じような表現の仕方があるものだと思いましたが、これまでの図書館のイメージを、かなり広げることの出来るひと時でした。

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三日妻の正体(7月30日)

 30日夜、知り合いのマグロ船の船長と、夕食を共にしましたが、若かりし頃の思い出話を聞いて、大笑いしてしまいました。

 この方は、高知の出身で、長く、北海道のマグロ船で船長をしていましたが、北海道の船主が廃業したのを機会に、今度は自分で船を購入して、高知港を母港とするマグロ船の、船主兼船長として、今も世界の海をまわっています。 

 これまでの最高記録では、一日の漁で、5000万円の水揚げをあげたことがあるという、わが国でも有数の、腕っこきの船長ですので、世界を股にかけた経験も話題も豊富です。

 中でも面白かったのは、南米のペルーでお世話になった、現地女性の話で、3日間をともに過ごした後、4日目の出航の朝に目をさますと、すでに早起きをしていた彼女は、かいがいしく台所で、味噌汁を作ってくれていました。

 その後ろ姿が実にさみしそうで、いざ出発という時にも、さめざめと泣き出す始末です。

 それを振り切って、バスに乗ったものの、いつまでも手を振る彼女の姿にほだされて、もう1日出航を延ばそうと、次の停留所でバスを降りました。

 ところが、そこから一目散に、彼女の家に戻ってみると、彼女は、もう別の男と、手を組んで歩いていたというのが話の落ちで、どっと座がわきました。

 それは、日系の人ですかと尋ねますと、いや現地の人ですとの答えでしたから、それじゃ、よく味噌汁が作れましたねと言いますと、「そうか、考えてみれば味噌汁も、誰かに教わってたんだな」と、船長さんは悔しがっていました。

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カマスへの義理立て(7月29日)

 29日午前、高知と縁の深い、双子のアーティストの展覧会で、オープニングの挨拶をしましたが、その席で、双子にもかかわらず、お二人の苗字の読み方が違っているわけを知りました。

 このお二人は、型絵染め作家の田島征彦(たじまゆきひこ)さんと、双子の弟で、木の実や流木などを素材にした、造形作家の田島征三(たしませいぞう)さんで、幼少期から高校を卒業するまでの間を、お父様の郷里である高知で過ごされました。

 展覧会は、お二人の半世紀の道のりをたどるものですが、お二人の名前のふりがなを見ると、征彦さんは「たじま」、征三さんは「たしま」となっていたため、双子の兄弟なのにどうしてと疑問に思って、兄の征彦さんにわけを尋ねてみました。

 すると、答えは簡単で、「カマス」というあだ名の学校の先生が、最初の授業の時、征彦さんに、「苗字の読み方は『たじま』か『たしま』か」と尋ねたのだそうです。

 この「カマス」の問いかけに対して、征彦さんが、「どちらでもいいです」と答えると、「そんないい加減なことでどうする。町会議員の選挙に出る時に困るぞ」といったやりとりが、先生との間であったため、面倒くさいので「たじま」としました。

 一方、弟の征三さんは、苗字を尋ねられて、「たしま」と答えたために、双子の兄弟の読み方が、違ってしまったとのことですが、それ以来、「カマスへの義理立てではないけれど」、兄は「たじま」、弟は「たしま」で通しているそうで、こんな話からも、お二人の、若い頃からの遊び心を感じました。

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県が出来ることは(7月28日)

 28日午後、今月末で退職をする、県の商工労働部長にとっては、最後になる政策協議で、多くの雇用を抱えながら、厳しい経営を強いられつつある企業に、県が何らかの手を、差しのべる必要はないかとの提言を受けました。

 企業経営者の自己責任だから、倒れる企業は致し方ないと、静観する考え方もあるだろうが、それぞれの分野で、ネームバリューを持つ企業が、万一そうした場面に直面した時に、県として、そのまま手をこまねいていていいのだろうかというのが、地場企業の振興を考え続けてきた部長の思いでした。

 確かに、地域社会に与える、心理的な影響の大きさや、雇用の不安を考えた時に、県として、何らかの支援策を考えておくべき企業があることは、一般論としては否定できません。

 しかし、過去には、県が直接に融資をするといった方法で、支援をした結果、大きな問題を起こした事例があるだけに、支援のスキームには、コンプライアンシイ(法の遵守)の視点からも、慎重な検討が必要になります。

 一方で、少しずつではあっても、企業の進出や増設の動きが、県内にも出始めている時だけに、長年、県の産業振興に尽くしてくれた部長が残してくれた、セーフティー・ネットへの提言を、正面から受けとめていきたいと思っています。

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夏休みこども体験ツアー(7月27日)

 27日午前、夏休みの企画として県庁が募集した、県庁体験ツアーに応募してくれたこども達を、知事室に迎えましたが、共通の体験を持たない世代に、説明することの難しさを痛感しました。

 この日は、朝一番の仕事が、こども達の訪問でしたが、みんなが席に着くと、早速、一人の男の子から質問が飛びました。

 質問の一つは、子供の頃に、何になりたかったかといったことでしたが、彼は、将来プロ野球の選手を目指していて、あこがれは、タイガースの押さえの切り札で、高知出身の藤川球児だと言います。

 そこで自分も、子供の頃の、プロ野球選手の思い出を話そうと思ったのですが、長嶋や王は、少し年上といった世代ですから、小学校時代の思い出というと嘘になりますし、正直に川上哲治と言っても、こども達にはわからないだろうと、出だしから言葉に詰まってしまいました。

 さらに、子供の頃のヒーローを問われて、力道山の名前をあげたのですが、案の定、誰もその存在を知りません。

 このため、力道山が、テレビが普及し始めた時代を象徴する、ヒーローだったことを説明しようと、僕が小学校に入った時には、まだ家にはテレビがなくてという話を切り出しますと、またまた、こども達が驚いた表情をする始末で、世代間のギャップの中で、夢やヒーローを語ることの難しさを、思い知らされた朝のひと時でした。

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大学では常識か(7月26日)

 26日午前、高知工科大学の、業務運営理事会で提案された、不祥事にまつわる、教員の処分の公表基準に、異議を申し立てました。

 高知工科大学では、若い講師が、不祥事のため懲戒解雇されるという、残念な出来事がありましたので、これを機会に、学内の処分に際しての、公表の基準を定めることになりました。

 ところが、事務局から提案された基準を見ますと、解雇や停職の場合でも、原則として、教員の名前を公表しないと読みとれる内容になっています。

 これに対して、県庁の基準を確かめてみますと、解雇や停職の場合は、原則として氏名は公表、それ以下の処分でも、報道など何らかの関係で、すでに名前が知られているケースでは公表、さらに、社会に与えた影響や職責の重さから、公表をしないより公表をした方が、公益に資すると判断した場合には、処分の重さにかかわらず公表することになっていました。

 このため、この日大学で開かれた、業務運営理事会では、県庁でも、こうした基準を設けている時代に、解雇や停職でも、原則として名前を出さないといった基準を作ったら、身内をかばう大学の体質が厳しく批判されて、大学の信用や評判にもかかわってくると、内容の見直しを求めました。

 事務局の説明では、他の大学でも、こうした場合、原則として名前は公表しないという基準があるそうですが、それらの基準が、かなり以前に作られたという事情があったにせよ、このままでは、「それが大学の常識か」と、言われかねないと危惧しました。

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漫画で学ぶ文化論(7月25日)

 25日午前、県の国際交流員として、オーストラリアから来ている青年に、着任の辞令を渡しましたが、日本の漫画を、大学での研究に使ったという、なかなか目のつけ所のよい青年でした。

 辞令を渡した後の、10分余りの会話でしたが、履歴を見てみますと、同じ大学で、微生物の学士と、アジアと社会学の学士を取ったとありますので、どうして、こんなに関係のない分野を、同時に学んだのかと尋ねてみました。

 すると、オーストラリアでは、大学での4年間に、2つの違った分野の学士をとるのは、ごく当たり前だとのことでしたが、それでも、これほど違う分野は珍しいかもしれないと、自己分析をしていました。

 小学校時代に、日本語の話せる先生がいたのが、日本に興味を持ったきっかけだったということで、大学では、日本の漫画を題材に、日本の男女のつき合い方の特徴を研究したのだそうです。

 果たして、どの漫画を使って、どんな分析をしたのかまで、詳しく聞く時間がなかったのですが、漫画と言えば、僕がまだ小さかった頃、レディーファーストの国アメリカの、若夫婦の暮らしぶりを描いた、「ダグウッド」(と言ったと思います)という漫画を通じて、まだ日本では見たことのなかった、電化製品をはじめ、大きなサンドイッチや飲み物など、アメリカの文化を感じとったことがあります。

 戦後の日本の子供が、アメリカを見る目と、オーストラリアの大学生が、日本の文化を見る目とは、もちろん全く違いますが、漫画は、異文化を学ぶのに、最適の材料であることを、彼の話を通じて思い出していました。

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銃刀法は大丈夫?(7月24日)

 24日午前、以前からつき合いのある、香美市の打ち刃物の職人さんが、自ら制作した包丁を届けてくれました。

 県内には、土佐打ち刃物という名称の、刃物作りの技が、地域の伝統産業として息づいています。

 かつてこの産業を支えていた、枝を落とすための、林業用の鉈(なた)や、草を刈るための、農業用の鎌(かま)などの需要は、一次産業の弱体化とともに衰えていますが、今も、家庭の日用品などの分野で頑張っています。

 現在は合併で香美市となった旧土佐山田町も、打ち刃物の盛んな土地で、この日は、高知に来た時からの知り合いで、山田で打ち刃物をされている方が、ご自分で作られた2本の包丁を、知事室まで持参してこられました。

 このうち1本は普通の包丁で、妻の名前が入っていましたが、僕の名前が彫り込まれたもう1本が、すごい迫力でした。

 というのも、刃渡りが50センチ余りもある、小刀のような代物で、聞けば、鰹をさばくための包丁だと言います。

 料理のまねごとはしても、鰹のように、大きくて硬い魚をさばいた経験など、全くありませんので、有り難うとお礼を言ったものの、自分に使えるだろうかと心配になりました。

 心配と言えば、大きさからは、日本刀の小刀と、さほど違わない気もしますので、まさか銃刀法に触れることはないだろうなと、いらぬ心配もしてしまいました。 

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2006/08/03

優雅な昼食(7月23日)

 23日午前、病気見舞いのため、愛媛県との県境付近に住む、知人のお宅を訪ねましたが、帰りがけに、四万十川のほとりで、優雅な昼食をいただきました。

 お見舞いに伺った家の主は、ウィークデイの5日間は、愛媛県側の病院に入院をしているとのことでしたが、声の調子もいたってお元気で、80歳という年令もものかわ、病院からの帰りには、45分ほどの道のりを、自分で車を運転してくると言います。

 そんなわけで、見舞いに行って、逆に元気づけられた思いでしたが、帰りがけに、四万十川沿いにある、知り合いのお店に寄って、昼食を食べさせてもらいました。

 最後には、うな重が登場するという優雅なメニューでしたが、食後に、近くの沈下橋に出かけて、久し振りに、川面を行き交う風を体感しました。

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条例に再挑戦(7月22日)

 22日午後、「県政への県民参加促進条例」を考える委員会の、第1回目の会議で、結果的に途中で頓挫した、以前の条例づくりに向けた取り組みの経験も含めて、主催者としての挨拶をしました。

 今年で15年目を迎えた、知事としての仕事を通じて、一貫して取り組んできたことの一つは、開かれた県政の実現、県民参加型の県政の実現でした。

 情報公開もその一つですが、ただ単に、県政の問題点をチェックするための、手段として使うだけではなく、その情報を活用して、県民参加型で県政を進めていく、仕掛け作りが大切だと考えてきました。

 そのため、道路や県営住宅などの整備にあたって、県民参加のワークショップを試みましたし、そうした手法を、「自治基本条例」という名称で条例化しようと、職員による横断的なワーキングチームを、立ち上げたこともありました。

 しかし、この時は、住民投票を条例のなかに位置づけるかどうかといった各論から、そもそも、自治の基本を定める条例を、県の職員だけで作るのは、自己矛盾ではないかといった総論に至るまで、喧喧がくがくの議論のあげく、その壁が乗り越えられないまま、条例づくりを断念した経過がありました。

 その後、そうした経験も活かして、「森林環境税」や「こども条例」、さらには、「循環型社会づくりビジョン」の策定にあたっては、構想の段階から、県民の皆さんと県の職員が、一緒に検討をするワークショップや、そこでまとまった案をもとに広く意見を求める、パブリックコメントといった手法を積み重ねてきました。

 最近では、「南海地震条例」に向けての検討会の中で、同様の手法がとられていますが、このように、それぞれの事業を進める担当の部署では、県民の皆さんの参加を得ながら、事業を進めるノウハウが蓄積されてきました。

 そこで、今一度、「自治基本条例」に挑戦をした当時の思いに立ち返って、県政の全般にわたって、県の意思決定の場面に、県民の皆さんの意思を反映させるためにはどうすればいいのか、また、そのために必要な条件整備は何かを、条例の形で、統一的な基準として定めたいと考えました。

 このため、公募した20人の委員に、条例案に盛り込む内容などを検討してもらおうというのが、この日から始まった委員会の役割です。

 ただ、この条例のように、「執行部」と「議会」との、あうんの呼吸で動かしてきた地方自治の仕組みの中に、県民参加型という、直接民主主義的なバイパスを設けようとする試みには、誤解や抵抗感がつきものですので、紆余曲折は覚悟しなければなりませんが、分権の時代にふさわしい、住民自治の条例が提案できればと考えています。

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卓越したバランス感覚(7月21日)

 21日朝、昭和天皇が、当時の宮内庁長官に、靖国神社にA級戦犯が合祀されたことに、不快感を表明されていたとの報道を見て、さもありなんとの思いを持ちました。

 と言うのも、記者時代に、皇室担当として、昭和天皇に関する各種の資料を見る中で、昭和天皇は、独特のバランス感覚を身につけた、現実的な平和主義者だと、受けとめてきたからです。

 例えば、太平洋戦争の開戦前に、短期間で決着がつけられると上奏した軍の幹部に対して、昭和天皇が、「中国との開戦の時にも、同じようなことを言っていたが、今もって決着はついていない。太平洋は、中国大陸より広く奥も深いのに、何故そのようなことが言えるのか」と言って、幹部が言葉につまる場面が、資料の中に出てきます。

 この資料からも、昭和天皇は、明確な言葉で戦争をとめることをしなかったという評価と、政治介入をしないという、立憲君主としての精一杯の表現で、戦争に反対をしたのだという、二通りの見方が出てくるのですが、並々ならぬバランス感覚で、物事を見ていたことは間違いありません。

 また、A級戦犯の中には、昭和天皇が、国のために尽くしたと評価していた人物もいますので、単純に戦勝国の思惑にのって、A級戦犯を、全否定されたわけでもありません。

 やはり、今も引きずってきている、いわゆる靖国問題の文脈の中で、言われていることですので、現実的な平和主義者としての、面目躍如ではないかと感じました。

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絵本「竜のはなし」(7月20日)

 20日午後、兄の後を継いで代議士をしている甥から、「追憶・亡き父、橋本龍太郎」と題された一文とともに、宮沢賢治原作の絵本が送られてきました。

 それは、宮沢賢治の原作に、絵本作家の戸田幸四郎さんが絵をつけた、「竜のはなし」という絵本で、可愛らしいクマやウサギが主人公を務めるお話とは、趣を異にしています。

 そこに描かれる竜は、あらゆる生き物を、その毒気で圧倒してしまう力を持っていましたが、ある時、これからはもう、すべてのものを悩まさないと心に決めて、静かな場所を求めて林の中で眠りに入ります。
 
 ところが、無抵抗を誓った竜は、猟師たちに皮を剥がれ、かんかん照りの熱さに耐えかねて、水のある場所を探しているうちに、今度は、小さな虫に肉を食べられます。

 そこでも竜は、「いま肉をこの虫たちにくれておけば、やがてはまことの道をも、虫たちに教えることができる」と考えて、黙って虫に体を食べさせたため、とうとう、骨だけになって死んでしまいます。

 天上に生まれ変わった竜は、やがてお釈迦様となって、さきほどの虫たちをも、まことの道に導いたというのが、賢治の描いた物語でした。

 児童文学者の花岡大学さんは、後書きの中で、この本は、この国の教育が長いあいだ喪失している、「あるべき精神」にあふれていると綴られています。

 「あるべき精神」とは「捨身(しゃしん)の心」、言い換えれば、「なよなよした優美なやさしさ」ではない「強靱なやさしさ」、つまり、「自」を「他」に投入していさぎよく死に、いささかも、「はね返ってくるもの」を求めないといった、すさまじい精神のことであるというのが、花岡さんの解説でした。

 甥は、兄の誕生日に、この絵本を、孫である彼の長女の手を通じて、プレゼントとして贈ったことがあると、「追憶」の中に記していますが、絵本の見開きにある、「このはなしはおとぎばなしではありません」という賢治のひと言が、兄の最期を見とったばかりの身には、とても現実的に感じられました。

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名誉会長のノルマ(7月19日)

 19日午後、四国アイランドリーグの、高知ファイティングドッグス・ファンクラブの名誉会長に就任したのを機会に、球団の関係者から、机の上に置く、名誉会長のプレートをもらいました。

 サッカーのJリーグと同様、地域密着型のプロ野球チームを志してスタートした、四国アイランドリーグも、今年で2年目を迎えています。

 とは言え、経営的には、厳しい課題が数多くありますので、ファンの裾野を確実に広げていこうと、このほど、高知のチーム、高知ファイティングドッグスのファンクラブが立ち上がりました。

 そのファンクラブの、名誉会長にという話がありましたので、喜んで引き受けたのですが、この日は、ファイティングドッグスの関係者が、卓上用のプレートと、会員証にあたるカードを届けてくれました。

 会員募集の目標が1000人なのに対して、まだ、350人ほどしか集まっていないとのことで、その場で、マスコミのインタビューを受けた時には、名誉会長として、1000人の会員獲得を公言してしまいましたが、かなり重いノルマになりそうです。

 高知ファイティングドッグスの、球団の電話番号とファックス、それに、メールアドレスは以下の通りですので、ファンクラブに興味のある方は、連絡をしてみて下さい。

 「高知ファイティングドッグス球団」
 TEL 088−878−0775
 FAX 088−878−0776
 e-mail kfd@iblj.co.jp 

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南米まで追跡(7月18日)

 18日午前、県の収用委員会の委員を、長く務めていただいた方に、感謝状を差し上げましたが、あわせて、思い出話のいくつかを聞かせてもらいました。

 収用委員会というのは、公共事業の実施にあたって欠かせない、用地の買収に絡む手続きを扱うセクションで、最後までこじれた場合には、強制収用といったことにもなります。

 また、そこまでいかなくても、土地の所有者が亡くなって、何代かにわたって相続が繰り返されると、相続人があちこちに散らばる結果、その行方を捜すだけでも、大変な手間暇がかかることになります。

 予備委員の時代を含めて、16年にわたって委員をお務めいただいた、この方の場合も、土地の相続人を探して、南米のパラグァイにまで、追跡の手をのばした経験があると言います。
 
 この時は、色々な事情から、地元の県人会に入っておられない方だったため、県人会への照会だけではらちがあかず、現地を訪ねて、首都から遠く離れた州に住む本人を、ようやく捜しあてたとのことでした。

 一方、この方は、農業団体の幹部を、長く務められていますので、県内では、農地の関係した案件に、一番気を使うと言われます。

 このため、道路関係の用地の中に、農地の買収が課題になっているケースがあると話しますと、良いところで、辞めることになったのかもしれないと、胸をなでおろされていました。

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3連休に土と遊ぶ(7月15日〜17日)

 15日から17日までの3日間は、土日に祝日の続く3連休でしたので、岡山の知り合いのところに遊びに行きました。

 そこには、陶芸が出来る設備もありましたので、やはり家の主の友人である、備前焼の先生に、土いじりの手ほどきを受けました。

 まずは、ろくろの回転盤の上に置いた土の塊が、ゆがんで廻らないように、中心を取らないといけないのですが、これが結構難しくて、何度も先生の手をわずらわせました。

 先生の技を見ていると、土を上に引き上げるのも、簡単なことのように思えるのですが、やってみると、土の抵抗力が思ったより強くて、なかなか言うことを聞いてくれません。

 そんな悪戦苦闘の合間に、ひと休みをして、観光資源としての備前焼の現状を、先生に尋ねますと、備前市にある観光と物産の施設も、訪れる人が減ってきているため、備前焼の関係者の会では、毎回のようにぼやき声が漏れると言います。

 備前焼ほどのネームバリューがあっても、人集めの厳しさにかわりはないのだなと思いながら、再びろくろに向きあって、しばし、慣れない土いじりに興じました。

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四万十川百人一首のお誘い(7月14日)

 14日朝、メールボックスを開けてみると、「四万十川百人一首」に応募しませんかとの、お誘いのメールが届いていました。

 メールの主は、四万十川周辺で、通算5年の勤務経験を持つ方で、来年定年を迎えるのを機会に、何かと人生を楽しませてくれた、四万十川への置きみやげにしようと、「四万十川百人一首」という企画を、去年スタートさせました。

 主にはネットを通じての募集で、すでに、全国の有名無名の歌人から、60首ほどの歌が寄せられていますが、来年3月の定年という締め切りまでに、100首が揃うかどうか微妙になってきました。

 そこで、知事にも詠み手の一人として、「四万十川百人一首」に、是非とも参加してほしいと言うのが、メールの趣旨でしたが、あいにく、その手の素養が全くありませんので、とりあえず、期待をしないで待っていて下さいと答えるしかありませんでした。

 投稿された和歌は、「四万十川百人一首」のブログに公開されていますので、関心のある方は、下記のブログを開いてみて下さい。

 ブログ「四万十川百人一首」
 http://waka100s.exblog.jp/

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道州制論議へのつぶやき(7月13日)

 13日の午前中は、昨日に引き続いて松江市で開かれた、全国知事会議に出席しましたが、道州制の導入が「必要」だとした、内部の委員会報告をめぐる議論を、心の中で、あれこれとつぶやきながら聞いていました。

 結論から先に言えば、僕は、徹底した分権の実現を前提にするのなら、道州制に反対ではありませんが、その保証もないのに、道州制の導入が「必要」だと言い切って、国側の術中にはまることには反対です。

 では、国側の術中とは何かと言えば、分権を進めるためではなく、現在の、国と地方との間にある上下関係を温存するために、道州制に名を借りて、都道府県の合併を進めようという算段です。

 というのも、そうなれば国は、地方を支配する力を保ったまま、地方に渡す資金を減らすことで、自らの財源を確保するといった、一挙両得を果たすことができるからです。

 この日の会議では、道州制の導入が「必要」という表現に、賛成する立場の知事からは、「能動的に動いていかないと、改革は進まない」とか、「自らが自らを変える気概が必要だ」といった積極論の他、「座して待てば、単なる都道府県合併にもっていかれる」とか、「国も地方も、これだけ財政が厳しくなっている中で、都道府県の知事が、道州制による効率的な財政運営に、懐疑的な姿勢を示したら、国民はそれをどう受けとめるだろうか」といった意見など、様々な声が出ました。

 こうした意見を聞きながら、心の中で僕は、「改革を進めるというのは、本格的な分権型の国を作ることであって、道州の形を整えることではないだろう」とか、「座して待てと言っているわけではない。道州制を検討して、戦略を立てることは『必要』だが、今の段階で、導入が『必要』だとこちらから踏み込めば、国の財政改革を有利に進めるための、単なる都道府県合併に、利用されるだけではないか」などとつぶやいていました。

 ところが、道州制の導入が「必要」という表現に、反対する立場の知事から、「9道州を仮定して、税源移譲によるプラスとマイナスを試算すると、プラスは南関東中心になる」といった発言が出ますと、税源移譲による損得勘定を基準に、道州制の是非を論じているかのように聞こえて、その仲間入りをして発言することを、ためらってしまいました。

 いい大人と、その道のプロが大勢こぞって、なぜ、こんなわかりきったような議論を、繰り返すことになるのだろうと、いぶかしく感じながら、「多くの論点や懸念があるので、引き続き検討していくことにしたい」との、会長のまとめを聞きました。

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お通夜と評する人も(7月12日)

 12日は午前中から、島根県の松江市で開かれた、全国知事会議に出席しましたが、発言のタイミングを見つけられないまま、一日が過ぎてしまいました。

 この日の知事会議は、今月7日に閣議決定された、2006年度の「骨太の方針」などが、議論の主なテーマでしたので、その中に盛り込まれた、新しい地方分権一括法や、「新型」と呼ばれる、地方交付税の新しい配分方式への対応、さらには、各政党の党首選びに対しての、公開質問状の扱いなど、話し合いの項目は多岐にわたっていました。

 ただ、その分、各知事が、思い思いの意見を披れきするばかりで、的の絞れた議論にはなりませんでしたし、今ひとつ盛り上がらない場の雰囲気を、お通夜か三回忌のようだと評した知事もいました。

 そんなわけで、同じような意見を、いくつ並べても仕方がないと思っているうちに、長い一日が過ぎてしまったのですが、こうした会にならざるを得なかった理由を、自分なりに考えてみました。

 その一つは、国の側が、圧倒的な情報量や巧みな広報戦略で、いかがわしいキャッチフレーズを、もっともらしく見せているのに対して、有効な対案を出せていない点です。

 例えば、「基礎的収支を見ると、国は赤字なのに、地方は黒字になっている。だから、地方はもっと支出を削減すべきだ」という、いわゆる「プライマリーバランス論」も、その論拠のインチキさは、いくらでも挙げることが出来ます。

 しかし、その一方で、国も地方も大きな借金を抱えている中では、何か目標を立てて、財政改革に取り組んでいかなくてはならないことも、これまた確かなことなのですが、それでは地方が、国の言う「プライマリーバランス論」に対して、財政改革を進めるにあたっての、別の目標を示せているかと言えば、そうではありません。

 また、地方交付税の一部を、人口や面積などを基準にした、新型の交付税に変えると、国から持ちかけられているのに対して、それならこういう基準でといった提案を、地方から出せているかと言えば、これも、そうはなっていません。

 ですから、本来なら、上に述べた「別の目標」や、「配分の具体的な基準」について、もう少し、突っ込んだ議論が出来ればいいのですが、自分も含めて、これといった提案が出せないために、隔靴掻痒の雰囲気になってしまいます。

 それと、もう一つ感じたのが政治との関係で、この日の議論でも、国会議員に、地方の現状を理解してもらうことが大切だという意見も出ましたが、僕は、もっと踏み込んだ姿勢が、求められている時ではないかと思います。

 というのも、分権を勝ち取れるかどうかは、政府とのぶつかりあい以外の何ものでもありませんから、国に要望をしたり提案をしたりするだけで、実現できるテーマだとは考えられません。

 つまり、ここから先は、現在の与党も含めて、どこかの政党に、本来の地方分権なり地方主権なりを、公約に掲げて、政権を戦いとってもらうしかないと思うのですが、そもそも知事会と言う組織が、そうした戦い方には不向きですし、その上、多くの知事が、与野党相乗りの推薦を受けて選挙をしている現状では、本当の意味での政治的な戦いは、出来ようはずもありません。

 このことが、心の中での手詰まり感につながっている側面も、否定できない気がしました。 

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料亭の主人もびっくり(7月11日)

 11日午後、幹線林道の整備を求める、全国組織の総会に出席した後、関係のある国会議員のもとを、陳情にまわりましたが、民主党の渡部恒三さんから、環境税にまつわる思い出話を聞くことが出来ました。

 この組織は、緑資源幹線林道と改称した、かつての大規模林道の整備を求める連盟で、事情があって、数年前から、僕が理事長を務めています。

 総会の後、陳情活動のため、この組織に関わりのある、3人の国会議員を訪ねましたが、その中のお一人が、民主党の国対委員長の渡部恒三さんでした。

 話題が、環境省や林野庁が、早期の導入を求めているのに対して、財界や、その意向に配慮した経済産業省が、真っ向から反対をしている、環境税に及んだ時でしたが、渡部さんが、環境税と言えばと、竹下派・経世会時代の昔話をしてくれました。

 それは、渡部さんや兄の龍太郎、さらには、小渕元総理や、現在は民主党代表を務める、小沢一郎さんら7人の議員が、竹下派の7奉行と呼ばれていた時代の話で、ある時、都内の有名な料亭に、全員が勢ぞろいしました。

 その時、なぜか話題が環境税に、と言っても、当時は炭素税などと呼ばれていた時代ですが、生産活動を通じて、二酸化炭素を排出する企業から、税金を取ることの是非が話題になりました。

 メンバーの一人で、すでに鬼籍に入られている、奥田敬和さんが、早く導入を目指すべきだと、強硬に主張したのに対して、いわゆる商工族議員だった渡部さんと、やはり故人となった梶山静六さんの2人が、激しい反対論を展開しました。

 このため、怒り心頭に発した奥田さんは、料理に手をつけないまま、席を立ってしまったのですが、それと知らない料亭の主人が、料理に何か不都合があったのかと勘違いをして、大騒ぎになってしまったのだそうです。

 そんな昔話をしながら、渡部さんは、「奥田さんも梶山も、恵ちゃん(小渕元総理)も、龍ちゃんも逝ってしまったしな。環境税に反対してた俺も、今じゃ、それを進めないといけない立場だ」と、時代の移り変わりに、いささかしんみりとした様子でした。

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雨の景色が美しい(7月10日)

 10日午前、県東部の室戸市に完成した、海洋深層水を活かしたタラソテラピー施設の、竣工式に出席しましたが、窓から眺める雨雲の風景が、とても美しく感じられました。

 この施設は、化粧品づくりやエステを通じて、美と健康のコラボレーションを追い求めてきた経営者が、緑豊かな山が海岸線に迫る、室戸の自然の美しさと、海洋深層水の可能性に惹かれて、7年越しで取り組まれてきたもので、世界でも初めての、海洋深層水を活用したタラソテラピーに、17室の瀟洒なホテルが併設されています。

 まず新鮮だったのはプールの水の色で、普通のプールは、床面に青いタイルなどを使うことで、水を青く見せていますが、ここでは、水深300メートルを超える深層の海水を、直接汲み上げているため、プールの底は真っ白なのに、張られている水は青々としているのです。

 さらに、ホテルの部屋に入ると、そこには、もう一つの新鮮な驚きがありました。

 それは、部屋の形と、部屋の窓から見える景色なのですが、これまでのホテルは、コンパクトな構造の中で部屋数をかせぐために、間口を狭く奥行きを広くとった作りばかりでした。

 これに対して、このホテルは、海に面した窓を広くとるために、奥行きを狭くした、全く新しい作りになっています。

 しかも、ピロティーの2階部分に、横長の部屋が続いているため、部屋に入ると、目線と同じ高さに、あまり邪魔にはならない堤防を越えて、磯の岩場と太平洋の海原が広がっているのです。

 この日は午前中、空にはどんよりとした雲がかかっていて、時折、雨が海面を叩いていましたが、黒雲の動きや、はるか水平線の彼方に薄く差し込む光が、ヨーロッパの近世の絵画を連想させました。

 そんな光景を見ながら、もしかすると、お天気の良い日よりも、嵐の日の海が、ここの売りになるのではないかと思いました。

 そう言えば、はるか昔に東北地方で、地面を這う地吹雪を体験する、ブリザード・ツアーが話題になった時に、硬質のガラス越しに、台風の雨や風を体験できれば面白いだろうなと、考えたことがあるのですが、このホテルは、しっかりとした岩盤の上に建っていますし、構造計算上も、災害に対する対策がなされていますので、その当時の思いが、実現できるのではと感じています。

 また、そうした嵐の中で時を過ごせば、けがれた人の心も、少しは清められるのかもしれません。

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高校野球から見えるもの(7月9日)

 9日は、午前中から、大阪の高知県人会に出席しましたが、長くアマチュア野球の審判をされている、県出身の野球関係者から、高校野球の裏話などをお聞きする機会がありました。

 この方は、今から53年前に、キャプテンの捕手として出場した夏の甲子園で、決勝戦まで進んだのですが、1点リードして迎えた、ツーアウト・ランナーなし、カウントはツーストライクという場面で、打者のバットにかすったボールを、ミットからこぼしてしまったため、その後、逆転されて優勝を逃したという、苦い経験の持ち主です。

 なぜ球を取り損ねたのかと言えば、9回に入って、閉会式の準備が進む中で、1塁側に運び込まれた真紅の優勝旗が目に入ったため、キャプテンとして、その優勝旗を受け取る自分の姿が、一瞬、頭をよぎったのだそうです。

 ところが、その途端に、相手のバッターがチップをしたため、ボールがミットからこぼれてしまったとのことで、その後、審判として、アマチュア野球に関わり続けてきたのも、振り返れば、このことがきっかけだったと言われます。

 その高校野球の現状ですが、監督が昔ながらに、真面目に指導をされている学校と、勝つためになら少々のこともしてしまう、勝利至上主義の学校とに、完全に二極化されているとのことで、その上、サインを出し過ぎる監督が多いため、高校生が監督の顔色ばかり見て、指示待ち型になっていると嘆かれます。

 また、勝利至上主義といえば、春の選抜に選ばれるかどうか、すれすれの高校同士で、相手の学校の不祥事を、高野連に密告するといった事例も、珍しくないとのことでした。

 さらに、最近問題になっている、野球留学に関しては、去年の夏の甲子園大会に出場した選手のうち、他府県からの選手は、全体の21パーセントだったそうですが、単に、他の県の学校に入学することが問題なのではなく、中継ぎをするブローカーがいて、お金で選手を「人身売買」している現実が、問題だと指摘されていました。

 しかし、そうした野球エリートにまつわる、陰の部分とは別に、全国に4000校ほどあるチームの中には、まだ一度も試合に勝ったことのない学校が、およそ1000校もあって、それらの学校に、プロ野球の選手会が、練習用のボールを送っているといった、前向きの話題もありました。

 その中で、初めて耳にしたのが、「連合チーム」の話題で、1校だけではチームを作れない学校が、近隣同士で合同で組んだチームが、全国に、すでに60チームあるとのことでしたが、過疎や少子化という社会現象は、高校野球にも、確実にその影を落としていることを感じとりました。

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高知県へのご注文(7月8日)

 8日午後、高知県にゆかりや関わりのある、大阪の経済界の方々と、昼食をともにしながら懇談をしましたので、その場で出た高知に対するご意見を、参考までに書き並べてみます。

 お一人目は、国立大学の総長も務められた学者ですが、経済は、ものを作り出す側だけでなく、大学のように、専ら消費する側があって初めて成り立つといった話で、座を和まされた後、国際学会が開ける地域を目指してはどうかと、提案されていました。

 例に挙げられていたのは、イタリアのボローニャですが、学会で訪れた人が、次は家族連れで来てみようと思うために、観光客もふえていくと、その効用を説かれていました。

 次は、高知県のご出身で、大手企業の幹部をされている方ですが、川でカヌーやカヤックを楽しんでいると、鮎つりのシーズンには、釣り人と言い争いになるという経験を語られた上で、ダム湖をもっと活用できないかと言われます。

 あわせて、竜馬の「脱藩の道」に限らず、愛媛県境の本山町から、旧本川村の寺川を通って石鎚に抜ける道など、山あいの道を売り出してはどうかとのお話もありました。

 また、大手の家電メーカーの方からは、企業では、自分の強い部分に、全ての力を集中していくのがセオリーなので、高知なら、健康と冒険をクローズアップ出来ないかとのお話の後、車や汽車をやめて、歩いたりカヌーを漕いだりして移動した人には、積み立て式のポイントを差し上げる、といったアイディアを出されていました。

 一方、県内で仕事をした経験のある方からは、いささか手厳しいお話もありました。

 その一つは、マスコミの使い方が下手という話で、県内で取りあげてもらうのも悪くはないが、もっと県外に向けて、情報を発信するノウハウが必要だとの指摘でした。

 また、次々と新しいことに挑戦するのもいいが、やりかけていることを、どうやって成功させるかを、まずは真剣に考えないといけないという、少し耳の痛いご注意もありました。

 極めつきは、県内で、企業の相談にのっていただいている方のお話で、原石にはいいものがあるのに、取引先との交渉や売り方が、あまりにも下手すぎるといったご不満にはじまって、話が進んでくると、途中で相談もせずに勝手なことを始めるし、言っても言うことを聞かないし、とんでもない人が一杯いると、なかばあきらめ気味の発言もありました。

 とは言え、この方も、本当は高知の大ファンで、恋しさ余って何とやらなのですが、高知にほれ込んでいる人ほど、高知へのいらだちが募るのは、いずこも同じかと思いました。

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新旧知事との対話(7月7日)

 7日午後、「土佐二十四万石博」のPRのために訪問した大阪で、新旧2人の知事と、お話をする機会がありましたが、そのコントラストが、興味深く感じられました。

 現知事とは、大阪府の知事公館でお目にかかったのですが、兄へのお悔やみを下さった際に、4月の下旬に、東京で開かれたある会で、兄が原稿を手に挨拶をするのを見て、原稿など持つことのなかった人が、やはりどこか、本調子ではないのだろうかと感じた、といった話をされました。

 そう言えば、緊急入院をした翌日に予定されていた講演にも、ワープロで打ち出した原稿を用意していましたが、日頃は、原稿を読むことをしない人でしたので、何か自分自身でも、思わしくないと感じることがあったのかもしれません。

 そんな話の流れで、知事さんが、「私は、議会で、親にも言われたことのないような言われ方をするものだから、最近はお酒を飲んでいても、酔い方がおかしいのがわかるんです」と言われますので、「それは、全国どこでも同じでしょう」と応えますと、「そうですか、知事さんもですか」と、いたく喜ばれていました。

 その夜、大阪市内のホテルで開いた、高知の食材を使ったパーティーでは、僕が、最初に知事になった頃に、大変お世話になった、当時の大阪の知事さんと、久し振りにお話をすることが出来ました。

 毎日、何やかやと、出かける用があるとのことでしたが、何もない時には、碁を打つのが楽しみだとのお話で、やはり、その会に出席して下さっていた、元の大阪府警本部長とは、もらっている段位は自分の方が上なのに、実力では2目から3目敵わないなどと、楽しそうに話されていました。

 現職の知事の当時と比べると、明らかに血色もよさそうでしたので、昼間にお会いした、現職のぼやきとのコントラストが、わが身にも照らして、とても興味深く感じられました。

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権力の後ろ盾(7月6日)

 6日午後、県の消費者問題に関する条例が、改正されたのをきっかけに、消費生活センターを訪問しましたが、相談員の方から、センターの業務の中での、権力の後ろ盾の大切さをうかがいました。

 消費生活センターと言えば、ひと昔前までは、食品添加物など、環境や安全に絡んだ問い合わせが主流でしたが、最近では、詐欺や詐欺まがいの事案のほか、あちこちの金融業者からお金を借りる、多重債務に関する相談や、ネットにまつわるトラブルが、急激にふえてきています。

 このため、このセンターでもここ3年間は、年間を通しての相談件数が1万件前後と、それまでの2倍ほどに急増していますが、相談の主がお年寄りの場合には、話がなかなか要領を得ないため、相談を受ける側の労力も大変です。

 そんなわけで、相談を受けてくださる方の数を、若干なりともふやしてはいますが、この日は、2人の相談員さんから、お話を聞くことが出来ました。

 このうち、男性の方は、去年警察を退職されたばかりですが、捜査権も調査権もないのに、業者とわたりあっていく交渉力と法律知識を見て、凄いなあと感心したと言います。
 
 また、業者に電話をかけると、必ず相手との間で、 
 「どこのセンターですか」
 「高知県です」
 「県ですね」
 といったやりとりがあるとのことで、特段、強制力のある権限もないのに、これだけの仕事が出来る背景には、「県立」という、肩書きの力が欠かせないと指摘されていました。

 このことは、女性の相談員さんも同じ意見で、リフォーム業者に、県が指導文書を出したところ、それをきっかけに、この業者に対する相談が減ったという例を示されながら、県の指導権限と、一体になっているからこそ効き目があるので、これを、民間のNPOが請け負ったら、業者は言うことをきかないと強調されていました。

 さらに、東京都では、問題のある業者に、次々と命令や指導を出すことで、相談件数がふえるのを、事前に抑止しているとのことで、県の持つ力をうまく利用すれば、相談員や電話の回線をふやさなくてもすむというのが、この方の意見でした。

 民間との協力が、公共サービスの新しい可能性を広げる中で、県の持つ力を活かして、最後まで、直接関わっていくべき仕事は何かを、考えさせられるひと時でした。

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こんなこともあったのか(7月5日)

 5日午前、今月1日に亡くなった、兄龍太郎に対する、お悔やみのメールなどにまとめて目を通す中で、こんなこともあったのかと、これまで知らなかった兄の一面に、触れることが出来ました。

 その一つは、兵庫県の震災復興研究センターの方から寄せられたもので、兄が総理として、阪神・淡路の大震災の被災地を視察した結果、1996年7月から10年間、民間の賃貸住宅と公営住宅の、家賃の軽減が実施されたこと、また、97年3月には、阪神・淡路大震災復興基金への、3千億円の積み増しが実現して、これによって、事実上の個人補償が、実施されることになったことが綴られていました。

 特に、家賃の軽減は、兄が被災地の実態を目の当たりに見て、「わかった」と決断をしてから、9日後に打ち出されたとありました。

 これらのことを、大震災の被災地では画期的な、総理の決断だったと評価をいただいた上で、ご自身が、大震災から5年を検証された、「大震災いまだ終わらず」の中に、このエピソードを記したことも、紹介されていました。

 次は、在日の中国人の方からのメールで、兄が、中日友好のために貢献したことを評価された上で、「小渕元総理が死去された時、橋本さんが、大雨の中で、小渕さんの自宅前にずっと立たれていた姿が、今も頭に浮かびます」と書かれています。

 何かのご縁で、その現場を目撃されたのか、それとも、テレビの映像を通じての、思い出なのかはわかりませんが、最後には、中国の方らしく、「人生自古誰無私、留取丹心照漢青」と、残念ながら、意味が十分には理解できない詩が、添えられていました。

 もう一つは、霞ヶ関に出向中に、国会内で資料配付をしていた時の思い出を書いてくれた、県庁の職員からのものでしたが、廊下ですれ違う国会議員に、勇気を出して、「おはようございます」と挨拶をしたものの、誰一人相手にはしてくれませんでした。

 その中で唯一人、「やあ、おはよう」と、笑顔で声をかけてくれたのが、当時の橋本大蔵大臣で、末端の職員にも、気さくに声をかけてくれた人柄に、感激をしたと書かれていました。 

 兄に対しては、様々な印象や風評があったと思いますが、日々の立ち居振る舞いを、見る人は見ていてくれたのだなと感じました。

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雨の日は休めの教え(7月4日)

 4日午後、高知大学の学生が、学校帰りの子どもたちを、事件や事故から守ろうと結成した、「高知子ども守り隊・守るんジャー」のメンバーから、あれやこれやの経験談を聞きました。

 この日は、たまたま、去年11月に広島県で、小学1年生の女の子が、下校途中に殺害された事件の、判決言い渡しの日でしたが、全国で、こうした事件が相次いだことが、グループ結成のきっかけでした。

 今年1月から、本格的に稼働した活動の様子は、すでに、何度か報道もされていますので、ここでは、サイド的な側面から、なるほどと感じた話を、いくつか紹介したいと思いますが、その一つは、最寄りの小学校を訪ねて、校長先生に、活動への了解を求めた時のことです。

 校長先生からは、周囲から見て、すぐに区別がつくような服装をしてほしいということとあわせて、もう一つ、注文がついたと言います。

 それは、雨の日には休んでほしいという注文で、その心は、雨の日に、合羽を着たり傘をさしたりしながら、子どもたちの見守りをすると、ぐったりとくたびれてしまって、長続きしなくなるからという意味でした。

 この話を聞いた時、初めは、「その先生は、雨の日に早朝ウォーキングをして、三日坊主でやめた経験でもあるんじゃないの」と、茶化したのですが、考えてみると、子どもたちを見守る活動をしたいと申し出てきた学生に、その場で、「雨の日は休め」とアドバイス出来る先生は、相当に鋭いと感心をしました。

 鋭いと言えば、もう一つ、他の校区の人から、「うちでもやってほしい」と言われたらどうするのか、という質問に対しての、「生意気に聞こえるかもしれないけれど、最初から学生にお任せではなく、地域の人たちにも、まずは自分たちの手で、防犯の活動を起こしてほしい。その上で、それを、僕たちがサポートする関係を作りたい」というリーダーの答えも、別の意味で鋭いものでした。

 この「守るんジャー」の活動は、共通のロゴマークとともに、すでに、5つの府県の大学に広がりを見せていますが、活動の全国への波及とともに、メンバーの考え方も、確実に成長をしていると感じました。

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