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2007年8月

2007/08/16

思い出の日(7月31日~8月1日)

 31日午後、地元紙の記者に、次期の知事選挙には出馬しないことを伝えたのに続いて、1日朝には記者会見を開いて、この12月の任期切れをもって、知事職を退くことを表明しましたが、これを機に、知事としての16年を振り返るとともに、仕事の合間には、次に進むべき道を目指して、新たな勉強に励みたいと思いますので、今日でブログは一旦休止します。

 東京生まれで東京育ちの私が、思いもしなかったお誘いを受けて、高知県の知事になってから、16年の歳月が経とうとしています。

 現役では最年少、史上初めての、戦後生まれの知事としてスタートしたのが44歳、その私も、今年で還暦を迎えました。

 この間、一貫して、政治家としての仕事は、高知県の知事が最初で最後だと言い続けてきました。

 自らが発したその言葉の背景には、国政で仕事をする兄の存在がありましたし、最初で最後という気持ちに、長年揺らぎはありませんでした。

 しかし、昨年7月、兄の死に直面をした時に、祭壇の兄の写真を見上げて、何かを託されたような思いがしました。

 「俺の落し物を拾ってくれ」と、言っていたのかもしれません。

 もう一つの心の転機の伏線は、4年前の選挙の直後から生じた、国と地方との関係をめぐる大きな変化でした。

 三位一体の改革と、その一環としての、国からの3兆円の税源移譲をテーマに、その分、どの補助金や国庫負担金を廃止すべきかを、知事会で喧々諤々議論していた時には、大きな高揚感がありました。

 しかし、その結末は、地方の自由度を増すことにはつながりませんでしたし、それどころか、地方の暮らしを支えてきた地方交付税などが、大幅に削減された結果、持てる者と持たざる者との差を、決定的にしただけでした。

 遅ればせながらですが、その経験から、国に対する地方の位置づけや権限が、憲法を始めとする法律で、明確に規定されていない現状では、圧倒的な情報と権力を握っている国に対して地方は、こと分権に関しては、対抗のしようがないという現実を学びました。

 さらに、小泉・安倍と続く内閣の中で、行き過ぎた競争至上主義が追求されました。

 ところが、それに抵抗する側は、相変わらず、地方への補助金のばらまきを求めるという、不毛な構図が続いています。

 これでは、参議院議員選挙の結果を受けて、地方にもっと配慮をすると言っても、それは、霞ヶ関がすべてを仕切った上で、その配分役を国会議員が務めるという、従来の仕組みの復活でしかありません。

 地方の中には、その方が慣れているから楽だと考える人も大勢いますし、これ以上、分権論議に精を出すよりも、従来の枠組みの中で地方なりに頑張る方が、結局は地域の住民のためになるという、現実論も少なくないと思います。

 しかし、それでは何も変わりませんし、そうした、国が地方を支配する体制を温存したまま、道州制に移行しようものなら、高知県などはひとたまりもありません。

 政治家としての私を、長年育ててくれた高知県を、そんな目にあわさないためにも、また、地方の位置づけ、ひいては国の統治の形を変える上でも、新しい挑戦をすべきだと考えました。

 そのための政治活動の拠点は、自分にとって、故郷(ふるさと)と言える存在になった高知県です。

 確かに、生まれ育った土地が故郷ならば、それは東京ですが、都内だけでも6ヶ所を転々とした、都会の根無し草には、16年間を過ごした高知は、立派な故郷になりました。 

 29日の夜、参議院議員選挙の結果を見ながら、これらの思いを、30日から1日にかけて、公表することを決断しました。

 この間、こうした自分の心の変遷や思いの変化は、誰にも相談をしませんでした。

 また、この日までに、今期をもって知事の職を退くとの意思を伝えた人も、2人だけでした。

 1人は妻、もう1人は、新聞紙上で、「意中の人」と紹介された人です。

 この人が知事に選ばれるのなら、自分が16年間奮闘してきた流れも生き続けるし、現在の厳しい現状を理解した上で、ひたすら地域と県民の皆さんのことを考えた県政が実現できると考えて、「意中の人」に声をかけたのは、7月6日のことでした。

 本当は、7月7日の七夕の日に声をかければ、短冊に書いた言葉のように、願いがかないやすいかと思ったのですが、7日は都合がつかなかったため、七夕のイブに、願をかけることになりました。

 こうした経過をたどって、周囲の誰にも知らせないまま、新聞紙上での発表になりましたので、長くおつきあいをいただいた方の中には、水臭いと寂しさを感じられた方や、なぜいきなりと怒りを覚えた方も、数多くおられたかと思います。

 ただ、今回の決意は、16年を締めくくる大切なメッセージですので、16年前のことを思い起こして、一人一人の県民の皆さんに、この思いを直接伝えたいと思いました。

 というのも、16年前の選挙は、肩書きのない方々が寄り集まった、無党派・草の根型の運動だったからです。

 当時を振り返れば、高知県に対する十分な知識もないまま、高知に来てから選挙が終わるまでの3ヶ月半の間に、県内を駆けずりまわって、行く先々で聞いた話を、自分の構想の糧とする日々でした。
 
 そんな自分の必死さに、多くの県民の皆さんが応えて下さいました。

 11月の選挙ですから、日暮れも早いのですが、夜の帳が下りた中で選挙カーを走らせていると、川を隔てた対岸の家々から、何人もの人が、懐中電灯をぐるぐると回して出迎えてくれました。

 夜の山道を走っていた時、前方の山の中から、突如明かりが漏れてきて、木々の間を、息せき切って駆け下りてきた年配の女性が、どうしても貴方に会いたくてと、手を握ってくれました。

 海沿いの集落では、家の門々から人が出てきて、狭い道が人でうまったこともありました。

 多分、それまで誰も経験したことがないような、感動の連続でした。

 もちろん、すでに幽明境を異にした方も、また、当時の思いが薄らいだ方もいらっしゃるでしょうが、それから16年が経った今、もう一度出発点に返って、肩書きを持たない一人一人の県民の皆さんに、まず最初に、自分の思いを伝えたいと考えました。

 だからこそ、この日までは、妻と「意中の人」の2人を除いては、誰にも語らず、一度に、すべての方に語りかけることにしたのです。

 「政治」を、錆びついた概念の中でしかとらえられない人たちは、これからも、様々な思惑や推測を繰り返すでしょうが、すでに多くの県民の皆さんは、ある時は、より高い次元で、またある時は、より暮らしに身近な視点で、「政治」を考えられるようになっていると、私は信じています。

 1日朝、記者会見を前に、年度途中で正式採用になった新人の職員への、辞令交付の式がありました。

 次期の知事選挙への不出馬を伝える報道の中で、当の知事から、採用の辞令を受け取ったことは、新人の職員にとって、きっと、一生の思い出になるのではないかと思います。

 自分にとっても、40近い年齢差の新人たちに、辞令という紙のバトンを手渡したような気分で、思い出深い一日になりました。

 年齢と言えば、今年還暦を迎える我々の世代は、団塊の世代と呼ばれて、戦後のそれぞれの時代を、引っ張ってきた存在でもありました。

 その団塊の世代の一員として今、関心をもっていることの一つに、憲法を通じた、新しい国づくりの可能性があります。

 法律が出来るまでの経過や、安倍総理がそこに込めた思いはともかく、憲法を改正するための手続法が整いました。

 アメリカの占領下で作られた、今の憲法を見直すといった、過去に引きずられた狭い視野からではなく、明治維新や敗戦に続く大きな時代の変革の中で、これから百年の国の姿や、世界の国々との関わりを思い描いていけるという点では、歴史上、またとないチャンスでもあります。

 知事としての、残された4ヶ月余りを、しっかりと勤め上げていくのは当然のことですが、16年の総括をまとめながら、新たな課題に挑戦をしていくためには、自らをさらに磨いて、勉強を深めていかなくてはなりません。

 国と地方の関係はもとより、天皇制、安全保障、エネルギーなど多方面のテーマに関して、過去の歴史を学ぶ中から、自らの頭で、国の未来を考えてみたいと思います。 

 そうしたことから、日々書き続けてきたブログは、今日をもって、一時休止とさせていただきます。

 いつの日か必ず、ブログを再開することをお約束しつつ、あらためて、今日までのご愛読を心から感謝申し上げます。

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2007/08/07

危機管理能力(7月30日)

 30日朝、昨日行われた参議院議員選挙の結果を報じる、マスコミの報道を見ながら、総理の危機管理能力について考えてみました。

 制度上は、参院選挙で負けたからといって、辞任しなくてはいけない理由はありませんから、選挙の結果を受けて、安倍さんが辞めるか辞めないかは、ご本人の自由です。

 ただ、選挙戦の中で自ら声を張り上げて、自分と小沢さんのどちらがリーダーにふさわしいかと、政権選択を呼びかけた以上、その結果として、自らのリーダーとしての資格が否定されたのですから、ここで退くのが、自らの将来にとっても、過ちのない選択だったでしょう。

 にもかかわらず、選挙後初めての会見に臨んだ総理には、ご自身が今、危機管理上の大切な分岐点に立っているという、認識さえ感じられませんでした。

 しかも、続投の理由にあげた、自分の政策は支持されているとの認識の根拠を問われて、選挙中に街頭で演説をした時の、聴衆の反応を見てそう感じたと発言するに至っては、危機管理どころか、社会人としての常識さえ疑わざるを得ません。

 なぜかと言えば、総理を迎えての街頭演説には、もちろん一般の市民も足を止めるでしょうが、その大半が、動員をされた聴衆であることは、誰でも知っていることだからです。

 そこで、安倍総理の発言や行動を振り返ってみますと、危機管理の意識が極めて薄いことが、あらためて思い起こされるのですが、その一例は、選挙中に起きた、中越地震への対応でした。

 その日総理は、遊説を切り上げて、即刻東京に戻りました。

 問題はそこからで、その足で現地に飛んだのは、危機管理の最高責任者として、あってはならないことだったと思います。

 というのも、こうした大災害や大事件の場合、すべての情報は本部に集まりますから、被害の全貌が確認されるまでは、責任者は本部を離れてはいけないというのが、鉄則だからです。

 にもかかわらず、一般受けを狙ってか、そそくさと現地に飛んで、わずかな時間の視察で、原発は安全だったとPRする神経は、理解を超えるものでした。

 このように、理解を超える行動をとられる総理に、国民がいつまでついていけるかは微妙です。

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兄の古希の誕生日(7月29日)

 29日、参議院議員選挙の投開票日のこの日は、昨年亡くなった兄が健在ならば、70歳の古希を迎える誕生日でした。

 この日は、来客もあったので、夕方の6時過ぎに、高知市役所に設けられた投票所で、投票を済ませました。

 様々な事情が重なって、今回は期日前の投票が出来ませんでしたので、当日、投票所の前で待ち構える出口調査で、「どなたに投票されましたか」と聞かれたらどう答えようかと、一時は真剣に悩みました。

 ところが、投票に行く時刻が遅くなったため、すでに出口調査は終わっていて、心置きなく投票を済ますことができました。

 今回の参院選挙では、まず去年の暮れに、自民党の参議院の幹部から、どの候補の応援もしないでほしいとの、要請が伝えられたのをはじめ、選挙戦本番を目前に、中・四国を担当する、自民党議員の訪問も受けました。

 さらに、投票日の2日前には、自民党の中川幹事長からも電話が入るなど、これまでの選挙にはなかった動きが目につきました。

 結果も、それらの動きを裏打ちするような内容でしたが、たまたまこの日は、昨年7月に亡くなった兄が健在であったならば、満70歳を迎える古希の誕生日でした。

 その兄は、9年前の参院選で、自民党の敗北の責任をとって、総理を退陣しているだけに、様々なことを重ねあわせながら、関連の番組を見ていました。


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 老舗を歩いて思うこと(7月28日)

 28日午後、久し振りに、東京の日本橋にある、老舗のデパートに出かけてみましたが、1時間ほどの滞在時間の中からも、いくつか感じ取れることがありました。

 昨日は東京で、四国4県の知事が出席した、観光のシンポジウムや、県出身の若手・中堅の官僚との懇談会がありましたので、一夜明けたこの日は、そのまま東京で、休日を取ることにしました。

 とはいえ、一日家に閉じこもっていても仕方ありませんので、午後から、日本橋の三越本店に出かけて、店内をぶらぶらとしてみました。

 まず気づいたことは、当てもなくというと失礼ですが、何をしているのだろうと思うような、中高年の男性店員が、あちこちと動き回っていることです。

 父や母に連れられてきた子供の頃、老舗のデパートには、「お帳場」という付け払いの制度があって、買い物を済ました母が、「○○番の○○さんに」と言えば、お金を払わないで買い物が出来る様子を、不思議そうに見つめていた自分がいました。

 その当時は、それぞれの「お帳場」、つまり売り場を預かる責任者がいて、かなりの役割を担っていたように思うのですが、今はクレジットによる決済などが進んだ結果、「お帳場」など昔懐かしい役割は、次々と姿を消しています。

 それが、所在無げに店内を動き回る、中高年の男性を生み出している背景の一つではと、彼らの姿を見ながら、ふと昔を思い起こしていました。

 そうこうするうちに、妻がブラウスを見るというので、売り場につき合うと、今度は中年の女性店員が現れて、あれこれと口を出します。

 これはいかんなと思っていると案の定、妻の顔色が変わって、「また来ますから」と、そそくさと売り場を出て行ってしまいました。

 そう言えば、三越と伊勢丹との提携が報じられた時にも、店員の側から客に声をかける、従来型の売り方が、お客さんのニーズの変化とあわせて、話題になっていました。

 これも、老舗が老舗であった時代には、行き届いたサービスの模範だったのかもしれませんが、世の移ろいとともに老舗も移ろうと、店内を歩きながら感じていました。

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龍馬との名刺交換(7月27日)

 27日午後、東京で、ジェームス・三木さんが脚本と演出を担当する、ミュージカル「龍馬」の記者会見に出席しました。

 このミュージカルは、劇団わらび座の常設の劇場として、去年、愛媛県の東温市にオープンした、「坊ちゃん劇場」の第三作目の出し物ですので、愛媛県の加戸知事のお誘いで、脚本家のジェームス・三木さんらとともに、制作発表の記者会見に、顔を連ねることになりました。

 会見を前に、控え室に入ると、紋つき袴に長刀を帯びた青年がいます。

 彼はおん年28歳、龍馬が脱藩した時と同じ年令にあたる、わらび座の俳優さんで、このミュージカルで龍馬役を務めるのですが、すっと立ち上がると、ふところから名刺入れを取り出します。

 あまりにスムーズな動きに、実際に龍馬と名刺交換をしているような錯覚に陥りましたが、新しもの好きの龍馬でしたから、名刺入れの存在を知っていれば、いち早く使っていたかもしれません。

 そんな、タイムスリップを感じさせる名刺交換を終えた後、ジェームス・三木さんに芝居の中身を尋ねてみますと、ミュージカルだけに、龍馬が歌を歌いながらタップも踊るとのことでした。

 さらに聞けば、龍馬に続いて、愛媛や四国とゆかりのある、正岡子規や弘法大師のミュージカルが、計画されているとのことですが、子規は病気で寝ている場面ばかりだし、弘法大師は、ドラマづくりに欠かせない女性の絡みがないしで、一体どうすればミュージカルになるのかと、話は盛り上がりました。

 それはともかく、龍馬は歴史上の人物の中でも、最も人気のある人ですので、ミュージカルの上演によって、これまでとは違った層のファンが、開拓されるかもしれません。


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旧友との遭遇(7月26日)

 26日午後、県西部の四万十市の商店街で、参議院議員選挙の応援に来ていた、民主党の鳩山幹事長と遭遇しました。

 この日は、午前中から四万十市内で、女性の農業委員や、農村女性リーダーの方々と懇談をした後、市内のホテルで開かれている、中国・四国地区の自治体病院の会で挨拶をしました。

 その帰りにホテルを出ますと、どこかで聞いたような声が、近くの商店街の方から聞こえてきます。

 それは案の定、小学校時代の同級生、民主党の鳩山幹事長の声でしたので、彼が応援に駆けつけた、民主党候補の選挙カーを遠くに見守る場所で、しばらくの間様子をうかがいました。

 というのも、今回の参院選挙では、どの候補の応援もしないと公言をしているため、あまり選挙カー近づいて、誤解を受けてもいけないと思ったからですが、滅多にない遭遇でしたので、演説が終わるのを待ち受けて、鳩山さんに声をかけました。

 「どう、ついでにマイクを握りませんか」などとからかわれながら、しばらく立ち話をしましたが、今回の選挙で、彼がトレードマークにしている赤いシャツ姿も、ことのほか元気そうに見えました。

 「また、食事でもしよう」と言って別れましたが、次に会う時に、政界はどんな形になっているのでしょうか。

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地域支援室(7月25日)

 25日午後、県内にある、自動車関連の事業の報告の中で、トヨタが立ち上げる、地域支援室の話を聞きました。

 これまで、高知県内には、自動車関連と言える企業が、ほとんどありませんでしたが、木製のハンドルの生産をきっかけに、ハンドルの事業分野では、新しい技術も開発されてきました。

 これは、従来のものよりはるかに優れた、ハンドルへの転写の技術で、県の工業技術センターが開発に関わったことから、企業と県とが、知的所有権を共有しています。

 このため、このほどトヨタの関連企業との間で、特許の活用に関する取り決めが結ばれましたが、生産の開始を急ぐトヨタ側の事情から、当初の月産1万本の生産は、県外での生産になりました。

 しかし、1万本を越す部分は、高知の県内で生産したいとの意向で、県でも、そのための場所作りを急ぐことにしています。

 そんな報告を聞く中で、近くトヨタの社内に、副社長をトップにした、地域支援室が立ち上がるとの話を聞きました。

 報告では、このハンドル事業の話とあわせて、地域支援室に対しても、県としてのプレゼンをしてきたいとのことでしたが、さすがに、巨額な利益を上げている企業だけに、これまで行政の専売特許だった「地域支援室」といった分野にも、お手伝いがいただけるようなのです。

 具体的な業務のイメージは、まだよくわかりませんが、公共事業の削減が続く中、これからはトヨタが、それに代わる役割を、果たそうとされているのでしょうか。


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知事車のオークション(7月24日)

 24日午後、長年活躍してくれた知事車が、ヤフーのオークションにかけられることになったとの、報告を受けました。

 この車は日産のプレジデントですが、僕の代になって、知事車が初めて、トヨタから日産に変わったという点でも、黒塗りではなく、パールホワイトだったことでも、県庁の一つの時代を区切った車でした。

 黒塗りをやめようと言い出した時に、「例えば、皇族が高知を訪問された際に、黒塗りでないと車の列につけなくなる」といった、いかにもお役所らしい議論が巻き起こったのも、今では懐かしい思い出です。

 ただ、広い県土を13年間近くにわたって、13万4500キロも走った老兵ですし、財政上の理由もあって、今年から知事車を廃止したことから、オークションにかけられることになりました。

 8月1日からヤフーの画面に掲載された後、入札は9月5日から13日までの9日間とのことですが、少しでも高く買ってほしいとの思いとともに、長年連れ添った友と、別れゆく寂しさも感じます。

 落札をしてお買い求めいただく方には、僕が直接キーを渡すことになっていますので、数多くの方に、札を入れていただきたいものです。


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古くて新しい課題(7月23日) 

 23日午前、中山間と一次産業の将来を考える、政策協議を行いましたが、古くて新しい課題であることを再認識しました。

 農業分野の統計データだけを見ても、昭和60年と平成17年とでは、就業人口は60パーセントに、また、農家数や耕地面積は70パーセントに減少しています。

 中山間地域では、この傾向はさらに激しいわけですから、さびれていく地域に、これ以上の資金を投入できるのか、といった意見もないではありませんし、守るにしても、その範囲を線引きしないと、成果目標が立てられないといった意見も出てきます。

 その一方、例えば集落営農などの仕組みを使って、生活の出来る構造が作れると判断すれば、そこに力を注いでいくべきだとの意見もあります。

 さらに、「中山間対策と一次産業は、分けて考えるべきだ。一次産業の復活なら、イノベーションを考えないといけないし、中山間対策なら、集落営農のような所得補償的な対策が必要になる」と、議論の接点を見つけることさえ難しくなります。

 そんな中で、農協や森林組合の、意識を改めていく必要性や、行政を含めた経営感覚の大切さは、誰も異論がありませんでしたし、農協と森林組合、農業振興部と森林部といった、縦割りで問題にあたる時代ではないという点も、共通の認識でした。

 しかし、それらの点さえ、10年前から指摘されていたことを考えると、県政を担う立場にある幹部が、一人一人、10年前の議論とどこがどう違っているかを、見つめ直す必要があるというのが、自分なりの、まとめにならないまとめでした。

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お久しぶりね(7月22日)

 22日夜、東京で開かれた、知人の再婚披露宴で、司会役を務めたNHKの松平アナウンサーと、久しぶりの再会をしました。

 このご夫妻は、一度離婚をした後、しばらくは別々に暮らしていましたが、あることをきっかけに縒りを戻して、この度あらためて、再婚の披露をすることになりました。

 出席者が50人ほどの小さな会ですが、その席で、招待客兼進行役を務めたのが、NHKのアナウンサーの松平さんで、席もたまたま僕の隣でした。

 知事になってからも、何度か顔をあわせたことはありますが、ゆっくりと話をするのは久し振りでしたので、昔と比べて最近は、1分間に読む文字の数が格段と増えたことなど、仕事がらみの情報をあれこれと聞きました。

 ところで、松平さんと席を並べて、こんなにゆっくりと言葉をかわしたのは、いつ以来かと言えば、昭和天皇の崩御を知らせる特別番組で、アナウンサーと記者として、数時間のライブをやりとげて以来、実に、18年ぶりということになります。

 ところが、元の夫婦が、縒りを戻したご披露とはいえ、おめでたい席に変わりはありませんから、お祝いのスピーチのネタに、松平さんとの、18年前の思い出を持ち出すのも憚られるなと思っていますと、司会役の松平さんの方から、その話が紹介されました。

 そんなわけで、自分の祝辞の中にも、昭和の終わりの追憶を交えたのですが、人のつながりは、様々な巡り合いをもたらすものだと、つくづく思いました。

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高級ホテルなみ(7月21日)

 21日昼、東京築地の癌センターに入院している、知人の見舞いに行きましたが、昔の癌センターとは、見違えるようなきれいさでした。

 これまでに、治療のために癌センターのお世話になったのは、ただの一度で、右の人差し指の先に、米粒大の腫れ物が出来たため、もしかして悪いものだったらいけないと、センターを訪ねたことがあります。

 結果は単なる腫れ物で、あっという間に切開手術をしてもらって終わりましたが、院内全体が、どことなく古びた感じでした。

 その後、癌センターには、末期の癌で入院をした叔父を、何度か見舞いに行ったことがありますが、その時も、くすんだ印象だけが残っています。

 それから、20年近くがたちますので、当然と言えば当然ですが、新しくなったセンターは、どこも見違えるようで、入院中の知人のいる個室は、1日4万円とのことでした。

 丁度、お昼の時間でしたので、一緒に最上階のレストランに行ったのですが、見晴らしが良い上、ウエイトレスもいる立派なレストランです。

 しばし眼下の風景を眺めながら、ランチの到着を待っているうちに、ちょっとしたホテル気分になってきました。

 癌専門の医療施設だけに、癌が不治の病と受けとめられていた時代には、癌センターという名前そのものに、、暗いムードがつきまといましたが、癌の治療が格段に進歩した今、病院の雰囲気そのものも、格段に変わったことを実感しました。

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ローレライの思い出(7月20日)

 20日昼、お揃いで高知県を視察に訪れた、駐日のフランスとドイツの両大使夫妻と、昼食を囲みながら懇談をしました。

 第一次と第二次の世界大戦だけでなく、歴史上、何度も戦いを交えたフランスとドイツの大使が、仲良く連れ立って地方の視察に訪れるのも、ヨーロッパ連合の時代ならではを感じさせる出来事です。

 特に、ドイツ大使の故郷が、旧東ドイツで、ポーランドやチェコと境を接するシレジアと聞くと、一層、歴史の移り変わりを感じないではいられません。

 昼食の際には、ドイツ大使と向き合う席になりましたので、30年近く前の新婚旅行の際に、船でライン川を下ったことを話しますと、横から妻が、「初めての夫婦喧嘩も、その時だったんです」と、余計なことを言い出します。

 仕方がありませんので、旅で一緒になった女性に手を振ったところ、それから2日間、妻が口をきかなくなったといった、若かりし頃の思い出話をしました。

 さすがに外交官と感心をしたのは、それに対するドイツ大使の受け答えで、「それは、ローレライに手を振ったのではないですか」と、にこやかに笑いながら言われます。

 ご承知のようにローレライは、ライン川中流の巨岩の上に憩うという伝説の妖女ですが、30年前にも、「僕が手を振った彼女は、ローレライの乗り移りだったに違いない」などと、洒落た言い訳を言えれればよかったのにと、大使の話を聞きながら、昔々の光景を思い起こしていました。

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専門家の作る落とし穴(7月19日)

 19日朝、先日の中越地震で被害を受けた、原子力発電所のニュースを見ていて、専門家が掘る落とし穴の恐さを感じました。

 この落とし穴には、いくつかのパターンがありますが、専門家を自認する人たちが、「これくらいのことで、何も知らない素人が、何を大騒ぎしているのか」と、彼らが「素人」と見る国民や、国民を代表して質問をしているマスコミを、馬鹿にしてしまうのがその一つです。

 今回の災害を受けて、東京電力の記者会見に出てくる担当者の中には、その落とし穴に入り込んでいることが、如実にうかがえるような顔つきや言い振りの人が、何人も見受けられました。

 こうした傾向は、わが国の原子力行政や原発の担当者に、一貫して指摘できることですが、専門家に任せておけといった思いで、自らが掘った穴の中に入っているままでは、何を語っても、声は外には広がっていきません。

 さらに危ないのは、穴に閉じこもった専門家が、ひたすらに安全神話を振りまくため、穴の周辺にいる、専門家ではない身内の人たちも、「何が起きても、何をしても、安全弁に守られている」という、思い込みの落とし穴にはまってしまうことです。

 それが、かつて茨城県の東海村で起きた、常識では考えられないような事故を産む温床にもなりますが、同じようなヒューマンエラーが、「想定外」の出来事と重なった時には何が起き得るかを、もっと真剣に、考えておかなくてはなりません。

 原子力は、日本にとって有力なエネルギーですが、その反面、人類にとって、最も危険な物質であることに違いありません。

 それだけに、専門家の掘った落とし穴にはまらないような、チェックの機能が必要ですし、そうしなければ、いつの日かその落とし穴が、わが国の墓穴になりかねないと危惧しています。

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エタノールブーム(7月18日)

 18日午後、中国で植林の活動をされている団体の方から、ヤトロファーという木の活用法について、提案を受けましたが、エタノール・ブームの広がりの一つとして、興味深く話を聞きました。

 中国では、砂漠化の進展が問題になっていますが、この団体では、砂漠化に少しでも対抗しようと、中国南西部の貴州省で、ヤトロファー、日本名でアブラギリという木を植林していると言います。

 この木は、その名のごとく油が採れますので、かつては国連が、石鹸の材料にできればと、発展途上国に配ったこともあるそうですが、物流を含めたコストパフォーマンスや、熱効率などの点で問題がなければ、今はやりのエタノールの原料に、活用できることになります。

 実は、この日の話も、中国での植林活動より、そのことがメインテーマでした。

 というのも、全国の各地で、家庭から出る食用油の廃油や菜種の油などを使って、車などを走らせるプロジェクトが、環境運動の一つとして盛んになっていますが、原料となる、廃油などの確保が思うに任せないため、コストパフォーマンスが悪いという悩みを抱えています。

 このため、耕作を放棄した土地でも荒地でも、割と簡単に根づかすことの出来る、ヤトロファーを使って搾油することで、こうした環境運動が持続できるように、支援してはどうかとの提案でした。

 もちろん、生態系への影響をはじめ、検討しなければいけないテーマも数多くありますので、この日は、お話を聞くだけにとどめましたが、エタノールの関連では、この欄でも、県内にある特殊鋼の工場が、アメリカからの、油を絞るバルブの注文で大忙しだといった話を、紹介したことがあります。

 そのアメリカでは、最近、スウィッチグラスという雑草が、油の原料として注目されているという、ニュースを見たばかりでしたので、今度はヤトロファーかと、とどまるところを知らないエタノールブームに、いささか驚かされました。

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ここにも官民の差が(7月17日)

 17日午後、県中部の日高村に建設が予定されている、産業廃棄物の処分場の発注に関して、事前の説明を聞く中で、こんなところにも、官民の差があるのかと感じたことがありました。

 それは、入札への参加資格などの条件を決めた後、それらの内容を公表する、「こうこく」という手続きに関してです。

 こうした場合、通常は「公告」と書くのですが、説明の書類には「広告」と、広告・宣伝の「広告」と紛らわしい表現になっています。

 聞けば、役所が文書で知らせる時には、「公告」という言葉が使われるのですが、この施設は、県が直接整備をするのではなく、民間の団体も入った財団法人が、建設をして運営することになっています。

 つまり、財団法人という、「官」そのものではない団体が行う手続きのため、「公告」ではなく「広告」が使われるというのです。

 そのことが、どんな規則で決まっているのかは聞き漏らしましたが、官民の分け隔ては、こんな所にまで行き届いているのかと、あらぬ感心をしました。

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他人事ではない(7月16日)

 16日午前、新潟県の柏崎市などを襲った、最大震度6弱の地震の被害を見ていて、他人事ではないとの思いを強くしました。

 というのも、高知県では、歴史的に繰り返し起きている南海地震が、向こう30年の間に、50パーセントの確率で起きると予測されているからです。

 しかも、その際には、津波のほか倒れた建物の下敷きになって、大勢の人が亡くなると想定されていますが、新潟の地震の映像を見ていますと、古い家屋が倒壊した様子が、次々と映し出されます。

 県内にも、建築基準法が改正されて、耐震化が義務づけられるようになった、昭和56年より以前に建てられた一戸建ての住宅が、12万戸余りありますが、耐震化に向けての改築はもちろん、建物が地震に耐えられるかどうかの診断さえ、3800戸余りしか進んでいません。

 もちろん、高知県でも、住宅の耐震診断や、それを受けて改築をする人のために、財政的な支援をしていますが、それにもかかわらず、こうした現状を変えることが出来ません。

 その背景の一つは、いかに一部の補助があっても、改築にはかなりの費用がかかるという問題です。

 高齢化が進む中で、お年寄りの中には、「もうこの年になったら、地震に遭ってもあきらめるしかない」といった思いがあることも、無視できません。

 こうした一方で、木造の古い住宅が、ぺしゃんこにつぶれている映像が繰り返し流されますと、阪神・淡路の震災の後のように、木造住宅への不安が募って、県内産の木材の需要が、さらに落ち込むのではないかと、別の心配も出てきます。

 といったことから、時々刻々と広がっていく被害の様子を、他人事ではない思いで見守っていました。 

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