思い出の日(7月31日~8月1日)
31日午後、地元紙の記者に、次期の知事選挙には出馬しないことを伝えたのに続いて、1日朝には記者会見を開いて、この12月の任期切れをもって、知事職を退くことを表明しましたが、これを機に、知事としての16年を振り返るとともに、仕事の合間には、次に進むべき道を目指して、新たな勉強に励みたいと思いますので、今日でブログは一旦休止します。
東京生まれで東京育ちの私が、思いもしなかったお誘いを受けて、高知県の知事になってから、16年の歳月が経とうとしています。
現役では最年少、史上初めての、戦後生まれの知事としてスタートしたのが44歳、その私も、今年で還暦を迎えました。
この間、一貫して、政治家としての仕事は、高知県の知事が最初で最後だと言い続けてきました。
自らが発したその言葉の背景には、国政で仕事をする兄の存在がありましたし、最初で最後という気持ちに、長年揺らぎはありませんでした。
しかし、昨年7月、兄の死に直面をした時に、祭壇の兄の写真を見上げて、何かを託されたような思いがしました。
「俺の落し物を拾ってくれ」と、言っていたのかもしれません。
もう一つの心の転機の伏線は、4年前の選挙の直後から生じた、国と地方との関係をめぐる大きな変化でした。
三位一体の改革と、その一環としての、国からの3兆円の税源移譲をテーマに、その分、どの補助金や国庫負担金を廃止すべきかを、知事会で喧々諤々議論していた時には、大きな高揚感がありました。
しかし、その結末は、地方の自由度を増すことにはつながりませんでしたし、それどころか、地方の暮らしを支えてきた地方交付税などが、大幅に削減された結果、持てる者と持たざる者との差を、決定的にしただけでした。
遅ればせながらですが、その経験から、国に対する地方の位置づけや権限が、憲法を始めとする法律で、明確に規定されていない現状では、圧倒的な情報と権力を握っている国に対して地方は、こと分権に関しては、対抗のしようがないという現実を学びました。
さらに、小泉・安倍と続く内閣の中で、行き過ぎた競争至上主義が追求されました。
ところが、それに抵抗する側は、相変わらず、地方への補助金のばらまきを求めるという、不毛な構図が続いています。
これでは、参議院議員選挙の結果を受けて、地方にもっと配慮をすると言っても、それは、霞ヶ関がすべてを仕切った上で、その配分役を国会議員が務めるという、従来の仕組みの復活でしかありません。
地方の中には、その方が慣れているから楽だと考える人も大勢いますし、これ以上、分権論議に精を出すよりも、従来の枠組みの中で地方なりに頑張る方が、結局は地域の住民のためになるという、現実論も少なくないと思います。
しかし、それでは何も変わりませんし、そうした、国が地方を支配する体制を温存したまま、道州制に移行しようものなら、高知県などはひとたまりもありません。
政治家としての私を、長年育ててくれた高知県を、そんな目にあわさないためにも、また、地方の位置づけ、ひいては国の統治の形を変える上でも、新しい挑戦をすべきだと考えました。
そのための政治活動の拠点は、自分にとって、故郷(ふるさと)と言える存在になった高知県です。
確かに、生まれ育った土地が故郷ならば、それは東京ですが、都内だけでも6ヶ所を転々とした、都会の根無し草には、16年間を過ごした高知は、立派な故郷になりました。
29日の夜、参議院議員選挙の結果を見ながら、これらの思いを、30日から1日にかけて、公表することを決断しました。
この間、こうした自分の心の変遷や思いの変化は、誰にも相談をしませんでした。
また、この日までに、今期をもって知事の職を退くとの意思を伝えた人も、2人だけでした。
1人は妻、もう1人は、新聞紙上で、「意中の人」と紹介された人です。
この人が知事に選ばれるのなら、自分が16年間奮闘してきた流れも生き続けるし、現在の厳しい現状を理解した上で、ひたすら地域と県民の皆さんのことを考えた県政が実現できると考えて、「意中の人」に声をかけたのは、7月6日のことでした。
本当は、7月7日の七夕の日に声をかければ、短冊に書いた言葉のように、願いがかないやすいかと思ったのですが、7日は都合がつかなかったため、七夕のイブに、願をかけることになりました。
こうした経過をたどって、周囲の誰にも知らせないまま、新聞紙上での発表になりましたので、長くおつきあいをいただいた方の中には、水臭いと寂しさを感じられた方や、なぜいきなりと怒りを覚えた方も、数多くおられたかと思います。
ただ、今回の決意は、16年を締めくくる大切なメッセージですので、16年前のことを思い起こして、一人一人の県民の皆さんに、この思いを直接伝えたいと思いました。
というのも、16年前の選挙は、肩書きのない方々が寄り集まった、無党派・草の根型の運動だったからです。
当時を振り返れば、高知県に対する十分な知識もないまま、高知に来てから選挙が終わるまでの3ヶ月半の間に、県内を駆けずりまわって、行く先々で聞いた話を、自分の構想の糧とする日々でした。
そんな自分の必死さに、多くの県民の皆さんが応えて下さいました。
11月の選挙ですから、日暮れも早いのですが、夜の帳が下りた中で選挙カーを走らせていると、川を隔てた対岸の家々から、何人もの人が、懐中電灯をぐるぐると回して出迎えてくれました。
夜の山道を走っていた時、前方の山の中から、突如明かりが漏れてきて、木々の間を、息せき切って駆け下りてきた年配の女性が、どうしても貴方に会いたくてと、手を握ってくれました。
海沿いの集落では、家の門々から人が出てきて、狭い道が人でうまったこともありました。
多分、それまで誰も経験したことがないような、感動の連続でした。
もちろん、すでに幽明境を異にした方も、また、当時の思いが薄らいだ方もいらっしゃるでしょうが、それから16年が経った今、もう一度出発点に返って、肩書きを持たない一人一人の県民の皆さんに、まず最初に、自分の思いを伝えたいと考えました。
だからこそ、この日までは、妻と「意中の人」の2人を除いては、誰にも語らず、一度に、すべての方に語りかけることにしたのです。
「政治」を、錆びついた概念の中でしかとらえられない人たちは、これからも、様々な思惑や推測を繰り返すでしょうが、すでに多くの県民の皆さんは、ある時は、より高い次元で、またある時は、より暮らしに身近な視点で、「政治」を考えられるようになっていると、私は信じています。
1日朝、記者会見を前に、年度途中で正式採用になった新人の職員への、辞令交付の式がありました。
次期の知事選挙への不出馬を伝える報道の中で、当の知事から、採用の辞令を受け取ったことは、新人の職員にとって、きっと、一生の思い出になるのではないかと思います。
自分にとっても、40近い年齢差の新人たちに、辞令という紙のバトンを手渡したような気分で、思い出深い一日になりました。
年齢と言えば、今年還暦を迎える我々の世代は、団塊の世代と呼ばれて、戦後のそれぞれの時代を、引っ張ってきた存在でもありました。
その団塊の世代の一員として今、関心をもっていることの一つに、憲法を通じた、新しい国づくりの可能性があります。
法律が出来るまでの経過や、安倍総理がそこに込めた思いはともかく、憲法を改正するための手続法が整いました。
アメリカの占領下で作られた、今の憲法を見直すといった、過去に引きずられた狭い視野からではなく、明治維新や敗戦に続く大きな時代の変革の中で、これから百年の国の姿や、世界の国々との関わりを思い描いていけるという点では、歴史上、またとないチャンスでもあります。
知事としての、残された4ヶ月余りを、しっかりと勤め上げていくのは当然のことですが、16年の総括をまとめながら、新たな課題に挑戦をしていくためには、自らをさらに磨いて、勉強を深めていかなくてはなりません。
国と地方の関係はもとより、天皇制、安全保障、エネルギーなど多方面のテーマに関して、過去の歴史を学ぶ中から、自らの頭で、国の未来を考えてみたいと思います。
そうしたことから、日々書き続けてきたブログは、今日をもって、一時休止とさせていただきます。
いつの日か必ず、ブログを再開することをお約束しつつ、あらためて、今日までのご愛読を心から感謝申し上げます。
