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2008年4月

2008/04/27

あの方の消息(4月25日)

 25日夜は、女優の司葉子さんを囲む会に同席をして、高知との
ご縁や、映画にまつわるお話を聞きました。

 司さんは、知事時代に理事長をしていた牧野記念財団で、理事を
していただいている関係で知り合いましたが、久しぶりに高知に来
られると聞いて、囲む会に同席させてもらいました。

 司さんが初めて高知を訪ねたのは、菊田一夫原作のドラマ、「忘
却の花びら」が映画化された昭和32年と言いますから、今から半
世紀以上も昔のことになります。

 向かった先は、ロケ地の室戸岬でしたが、高知にはまだ、飛行機
も飛んでいない時代でしたので、地の果てに行く思いがしたそうで
す。

 そんなお話を聞きながら、あらためて司さんに目をやると、とて
も、昭和20年代に銀幕にデビューした方とは思えません。

 自分自身、還暦を迎えてからは、強がりも込めて、今の日本人の
年齢は七掛けだと言い張っていますが、司さんを見ていると、まさ
に50歳を超えたばかりの感じで、人生七掛け論もまんざらではな
いと独り合点していました。

 とはいえ、共演者の中には、鬼籍に入られた方も少なくないので
すが、その中で、昭和37年に引退をされたた原節子さんは、今も
お元気で、司さんとは時々音信があると言います。

 原さんは、司さんよりさらにひと回り上ですが、本や新聞を読む
のがお好きで、政治の話題にもものすごく詳しいため、電話をする
と、1時間くらい話をしてしまうとのことでした。

 そこで、少し図に乗って、原さんは、なぜ突然引退をしたのかと
聞いてみたのですが、「さあねえ」と、意味深な表情でかわされて
しまいました。

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知る人ぞ知る話(4月24日)

 24日夜、高知で開発された、「土佐はちきん地鶏」のお料理を
いただきながら、土佐の地鶏の話に耳を傾けました。

 この夜開かれたのは、高知の食材を使ったイタリアンをいただく
会で、メインディッシュに使われた、「土佐はちきん地鶏」のお料
理に合わせて、土佐の地鶏の解説がありました。

 このことは、前にも聞いたことはあるのですが、日本の鶏の主な
品種34種類のうち、4分の1近い8種類が高知原産で、その中に
は、日本最古の鶏もいると聞くと、あらためて、土佐は地鶏王国な
のだと気づかされます。

 このうち、日本最古の鶏は、その名もずばり「地鶏」と言います
が、弥生時代に日本に渡来した当時の鶏の祖先の、形や性質を最も
多く残しています。

 また、中国料理の店の名前にも使われている「東天紅(とうてん
こう)」は、尾の羽が1メートルにもなりますので、土佐藩主の参
勤交代の際には、槍の先などに下げた、大鳥毛に使われたと言われ
ますが、それとともに、コケコッコーの鳴き声が20秒を超えるこ
ともあるほど、長く鳴く鶏として知られています。

 このため、かつては、「モーニング歌姫」という愛称が付けられ
ていましたが、「雄しか鳴かないのに、歌姫はおかしい」という、
もっともな指摘があって、愛称が「モーニングテノール君」に変わ
ったという経緯があるそうです。

 この他にも、闘争心の強い「軍鶏(しゃも)」や、家畜では唯一
の天然記念物である「尾長鶏(おながどり)」など、いずれもそう
そうたる顔ぶれですので、地鶏王国を実感しながら、「土佐はちき
ん地鶏」のささみのソテーに舌鼓を打ちました。

 ただ、全国的な地鶏ブームの中で、このことが、うまく活用され
ているかと言えば、決してそうではありませんので、知る人ぞ知る
で終わらせるのはもったいないと、あらためて感じました。

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みんなでほめ合おう(4月23日)

 23日夜出席した、若手の経営者との意見交換の席で、声かけ役
をして下さった方がまとめに語った言葉に、わが意を得たりの思い
がしました。

 この日は、朝早くから、県の西部に出かけましたので、高知の市
内に戻った頃には、日も暮れかけていましたが、その足で、知人の
声かけで集まって下さった、異業種交流の、若手経営者の方々との
懇談会に出席しました。

 もちろん、業種によって事情は違いますが、押し並べて厳しい環
境の中で、外に向けて新しいビジネスを売り出していきたいという
思いを持った人が、何人もいることに心強さを感じました。

 ただ、それにあたって、どこに相談しに行ったらいいかわからな
いとか、役所に、マーケティングの手伝いをしてほしいといった質
問を受けますと、そうした窓口もいくつか用意したはずなのに、ま
だ知られていなかったり、敷居が高いと感じられたりしているのか
なと、もどかしい思いもしました。

 それに対して、とにかく動きまわることで、人や情報のつながり
を、「1+1=2」といった足し算ではなく、掛け算にしていかな
いといけないと、アドバイスして下さった方の意見にも同感しまし
たが、さらに、わが意を得たりと感じたことがありました。

 それは、参加者に声をかけて下さった方が、先輩の立場から若い
経営者の方々に、今夜の会のまとめとして投げかけた言葉で、高知
県民は、人が成功すればねたむし、逆に失敗をすれば、ほらみろ言
った通りだろうと、お互いをくさし合うことが多すぎるという指摘
でした。

 それをやめて、もっとお互いをほめ合い、励まし合って盛り立て
ていけば、県外に向けてビジネスを成功させる人が、もっと出てく
るはずだという話です。

 このことは、日頃から感じ続けていることで、僕もよく口にして
いる県民への苦言ですが、外から高知に来た者ではなく、同じ高知
の先輩が言ってくれることに、違った刺激と伝わり方があるのでは
と期待しました。

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魚の話を話の肴に(4月22日)

 この日は、朝早くに家を出て、愛媛県との境にある、旧本川村の
中野川で、毛ばりを使った渓流釣り、フライフィッシングを楽しみ
ました。

 などと言いますと、あたかもベテランの釣り師かのように聞こえ
ますが、実はこの日が初体験でした。

 種を明かせば、以前、僕がパーソナリティーをしていたラジオ番
組に、この川で釣り場の管理をされている方に、出演願ったのがご
縁の始まりでした。

 ただ、現役の知事時代から、一度体験してみたいと思っていたも
のの、結局は、約束を果たせぬまま知事を退任してしまいましたの
で、この日あらためて、挑戦することになったのです。

 インストラクターを務めて下さったのは、大阪から、奥様のふる
さとの高知にIターンをした方で、フライフィッシング専用の管理
区域の中を、下流から上流へといざなってくれます。

 とはいえ、すべてが初めてですから、目に見えないほど細い釣り
糸に、自分で毛ばりをつけるのはとても無理で、インストラクター
の技に頼るばかりです。

 そんなわけで、当方は、万端整った後に釣り竿を受け取るや、や
おら竿を振るって、毛ばりを水面に投げ込むのですが、後ろの木の
枝に引っかかるは、水面の岩に挟まるはで、貴重な毛ばりを何度と
なく付けかえていただく羽目になりました。

 この毛ばりは、鶏の羽毛などを使って、季節ごとに、川面に現れ
る虫や幼虫の姿に似せて作るものですので、丹精込めた作品が無残
に消えていくのを、ただただ申し訳なく思うばかりです。

 考えてみれば、餌を使った釣りと違って、これほど手間暇のかか
る、非効率な釣りはありませんが、それだけに、魚との知恵比べを
楽しむという、とても高尚な釣りでもあります。

 途中、水面から魚影が見える場所もありましたが、こちらから、
相手が見えているということは、相手からも、人の姿が見えていま
すので、こういう時には、岩陰に隠れるなど、こちらの姿をみられ
ないようにしながら、毛ばりを投げなければなりません。

 などなどのうんちくを楽しみながら、上流へ向かうこと2時間余
り、もう駄目かと思っていたところに、見事引っかかってくれたア
マゴ(高知ではアメゴと言います)がいました。

 ところが、こちらは、また岩に引っかかったのかと思って、何度
か竿を引いたのですが、それが怪我の功名で、針が抜けないまま、
たも網のもとまで来てくれました。

 取ったら放すのがルールの、キャッチ・アンド・リリースですの
で、記念の写真を撮りまくった後、たもに入れたまま川に戻してあ
げましたが、その際にも、魚は水温の低いところにいるため、手で
握ると、人の体温で魚がやけどをしてしまうということで、これも
また、うんちくを増やすお話でした。

 後で聞くと、インストラクターの方も、釣れればいいけれど、ま
さかそれはないだろうと思っていたそうで、「橋本さんは、何か強
い星を持っているのだろう」と持ち上げられましたが、これぞまさ
に、ビギナーズラックだったのでしょう。

 ということで、生まれて初めての、フライフィッシングによるア
マゴ釣りを肴に、自慢話とうんちく話ができそうだと、ほくそ笑ん
だ一日でした。

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わかりやすい書類を(4月21日)

 この日は、女性の方々とのミニ集会を、市内の何か所かで開きま
したが、話題の一つは、役所から送られてくる書類のわかりにくさ
でした。

 わが家も、夫婦そろって60歳を超えましたので、年金やら介護
保険やら、様々な文書が送られてきますが、僕が読んでも、内容が
よくつかめないものが数多くあります。

 ましてや、我々以上の高齢の方が読んだら、何が書いてあるかわ
からないのが、当り前ではないかと思います。

 この日開いたミニ集会には、お年寄りもおられましたので、どこ
でも、後期高齢者の医療保険のことが話題になりましたが、よく聞
いてみると、新しい制度の内容と趣旨を理解した上で、あれこれ言
われているわけではないようなのです。

 というのも、たとえば、問題になっている、保険料の年金からの
天引きのことも、徴収する側から見て取りはぐれがないというだけ
でなく、払う側から見ても、支払いが滞っていたために、医療費を
満額請求されるような事態を、未然に防ぐことができるといった利
点があることをお話すると、それもそうだねえというお答えが返っ
てくるからです。

 もちろん、この制度は、はじめに財政の事情あり気で導入されて
いますから、内容そのものにも、財政論が先走った問題点があるこ
とは否めませんが、それ以前に、法律が成立してから十分な時間が
あったにもかかわらず、正直でかつ分かりやすい説明が、全くなさ
れていなかったことに、多くの方が、不安と不満を感じられている
ことがわかりました。

 そんなことを考えるうちに、先日お会いした方が話されていた、
採用されやすい申請書の書き方の話を思い出しました。

 この方は、大学の教授や産業振興にかかわる仕事をされていまし
たが、文部科学省の科学研究費や、経済産業省などの補助金を取る
ための、申請書の書き方が、誰も上手でないことに気づいて、相手
に通じやすい文章の作り方をパンフレットにまとめました。

 これと同じで、お年寄りが相手なら、お年寄りにもわかる説明を
することが、これからの政治には欠かせないことですので、新しい
制度ができた時に、正直で分かりやすい説明文を作る専門家が、作
れないものかと考えました。

 そうすることで、「天引き」のことはもとより、「後期高齢者」
や「姥捨て山」といった、言葉だけが独り歩きする議論ではなく、
新たに導入される担当医の制度で、何がどう変わるのかといった、
内容にかかわる議論が深まるのではないでしょうか。


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2008/04/24

ジャッジをする力(4月20日)

 20日、結婚式で隣り合わせた外科の先生から、手術をする医師
に、一番必要な能力は何だと思いますかと質問を受けました。

 そこに至るまでには、医師不足や、手術の手法の進歩など、いく
つかの話題がありましたが、この先生によると、ここ十年間に外科
医の数は、以前の4分の3に減っています。

 その一方で、団塊の世代が高齢化することによって、がんにかか
る人は2倍に増えると予想されているため、このままでは、手術を
1ヶ月以上待たされる人も出るでしょうし、お金持ちは、海外に手
術を受けに行くことになるかもしれないと言います。

 団塊の世代の一人として、他人事ではないと思いながら、お話を
聞いていましたが、せっかくの機会ですので、、外科手術の技術進
歩にも、話を向けてみました。

 というのも、先日、大腸がんを切らずに手術した話を、聞いたば
かりだったからですが、先生に伺うと、こうした腹腔鏡を使った手
術を考え出したのは、産婦人科のお医者さんなのだそうです。

 聞けば、腹腔鏡で子宮を見ていた医師が、器具をちょっと上に振
ったところ、胆のうが見えたことから、患部を切除する手術にも使
えると、思いついたとのことで、発想の転換が生み出した、技術進
歩の一つかと思いました。

 次には、ロボットを使った手術の研究が、進められているそうで
すが、人間と違って手ぶれがないことや、人間以上に細かい切除や
縫合が可能なことなど、メリットは容易に想像できます。

 ただ、そこには課題があって、というくだりで出てきたのが、冒
頭に書いた、手術をする際に、最も必要な能力は何だと思うかとの
問いかけでした。

 それに対して僕は、集中力の持続ではないかと答えたのですが、
「それも大切ですが、何よりも重要なのはジャッジをする力です」
というのが、先生の答えでした。

 つまり、体を開いて患部を見た瞬間に、検査だけではつかみ切れ
なかった状況を把握して、どう対処するかの判断を下すことが、最
も大切だというわけですが、この力を身につけるには、持って生ま
れた才能のほかに、熟練が求められますので、ロボットでは、そこ
までは無理ということになります。

 なるほどと思って聞いていますと、先生から、「ジャッジの大切
さは、政治の世界でも同じでしょうが」と振られましたので、「確
かに、そうですね」と、うなずくしかありませんでした。 

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2008/04/20

病を得たお二人(4月19日)

 たまたまですが、19日午前中は、脳梗塞を経験された方を相次
いでお訪ねして、病前病後の様々なお話をうかがいました。

 一人目の方は、現役を引退後、県の西部に暮していましたが、発
作が起きる二日ほど前から、言葉がおかしくなるなどの兆候があっ
たと言います。

 ところが、病院に行くと、緊急を要することではないとの診立て
だったため、精密検査の予約をして帰ったところ、検査の前日に発
作に襲われました。

 異常を感じたのは、車の運転中でしたが、家まではと頑張ったた
め、奥さまによると、隣近所に迷惑をかけなかった分、家の玄関や
車庫は滅茶苦茶に壊れたそうです。

 病気をきっかけに、娘さんが住む高知市内の団地に、土地を求め
て移り住んだとのことで、これも奥様の弁を借りれば、踏ん切りの
つかなかった引っ越しも出来て、ピンチをチャンスに変えた気がす
るとのことでした。

 ただ、ご本人は、不自由さの残る身に、もどかしさを感じられて
いるようでしたので、先日の日野原さんを例に出して、まだ10年
20年は人生を楽しむつもりでと、励ましました。

 二人目の方は、現役の社長時代に発作に見舞われた方で、久し振
りにお会いすると、随分と良くなられていました。 

 聞けば、入院をした病院が、リハビリに関して、設備的にはあま
り恵まれていなかった分、一日中、好きなようにリハビリに励めた
ので、そのお陰で回復が早かったと言われます。

 この方らしい、諧謔をきかしたお話かと思いましたが、リハビリ
の成果は確かに抜群で、作業場を見せていただいた時の足取りも、
しっかりしたものでした。
 
 ただ、カラオケで鳴らした自慢の喉が、元には戻らないとのこと
で、「世界的な損失だと言ってるんです」と、これまた、この方ら
しい言い振りは健在でした。


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時計の振り子(4月18日)

 18日午後、週刊誌の取材をきっかけに、あらためて同和対策を
振り返ってみましたが、その経過には、時計の振子を思い起こさせ
る流れがあります。

 などと言いますと、何を言いたいのか分からないかもしれません
が、昭和40年代の半ばに、同和対策事業が始まった当初は、道路
や住宅の整備から、進学率や就労率の改善といったソフトの面に至
るまで、差別によって生じた地域の状況を改善していくことは、十
分に社会性を伴った事業だったと思います。

 ところが、長年にわたって、特別対策として多額の予算がつくう
ちに、予算を執行する行政の側は、それを使い切ることが人権に寄
与することだと、目的と手段を取り違えるようになった嫌いがあり
ますし、事業を受ける側も、それが既得権かのような、受けとめを
するようになりました。

 こうしたことから、団体の中に、解放運動が本来目指してきた道
とは違う、好ましくない方向に、走る人たちが出てきたことも否定
できません。

 それは、お金の絡む事業の面だけでなく、公務員として役所に働
く人が、団体の虎の威を借りて勝手な勤務態度をとる、といった行
動にも現れました。

 最近になって、大阪、京都、奈良といった地区で、今もってこう
した実態が続いていることが、明かるみに出ましたが、今頃になっ
て、まだこんなことをと驚くと同時に、これらの誤った権利意識の
残滓が、これまでのまっとうな活動の歴史を、台無しにしかねない
と心配になります。

 というのも、本来の解放運動は、文字の読み書きができるように
する、識字の運動をはじめ、差別によって生じた格差を埋めるため
に、さらには、人権に対する意識を高めるために、大きな役割を果
たしてきたからです。

 その活動の精神は、様々な面から厳しさを増している、子供たち
をめぐる問題や、最近の格差問題に対応するにあたっても、生かさ
れていくことでしょう。

 そうした意味で、特別の事業によって、同和対策の振り子が、あ
らぬ方向に大きく振れた点は、是正されなければいけませんが、か
といって、すべての活動の実績を否定するのも、振子を逆に振り切
ることにしかなりません。

 この日、この問題に関する週刊誌の取材をうけながら、 特別対
策が終わって5年余りがたつ今、もう一度、同和対策、ひいては人
権対策の振子の位置を、あらためて考えてみるべき時かと感じまし
た。

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吾輩はアユである(4月17日)

 今日は、この日物部川の漁協で聞いた、最近のアユにまつわる話
を、吾輩はアユであるの気持になって書いてみます。

 このところ、温暖化の影響で、川の水温も上がってきたし、水の
量も減ってきたので、私たちアユも、産卵の時期を遅らすようにし
てるんですが、人間は、昔と同じように落ちアユ漁をしますから、
なかなか、産卵場所まで降りていけないんです。

 それでも、何とか産卵場所にたどり着いて、赤ちゃんを産むと、
下流の水量も少なくなっているために、赤ちゃんが、河口まで下れ
なくなります。

 そこで、漁協のおじさんが、せめて夜間だけは、農業用水の取水
を止めてくれと頼んでくれて、ようやく赤ちゃんが、河口まで行け
るようになったんですが、今度は、河口が砂で埋まって閉じている
ために、どうしても海に出られません。

 これまた、漁協のおじさんが、重機を使って夜通し河口を開けて
くれたので、赤ちゃんは無事海に出られたけれど、朝になると、ま
た河口が閉じてしまうので、多くの赤ちゃんが、川に戻ってこれな
くなりました。

 それでどうなるかと言うと、シラスをとるバッチ網漁に、一緒に
かかって、水揚げされてしまうんです。

 でも、役所に知らせると、誰がどれだけ採ったのかといった、犯
人捜しに時間がかかってしまうので、川の漁協のおじさんが、海の
漁協の人に連絡をして、赤ちゃんの遡上に、海の側も協力をしてく
れることになりました。

 といったわけで、私たちが生きていくのも、大変な時代になりま
したが、役所同士も、海にかかわる人も、農業にかかわる人も、み
んなが、これまでの垣根を取り払って、川の将来を真剣に考えない
と、やがて、私たちがいなくなる日が来るかもしれません

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2008/04/17

コミットメントの教え(4月16日)

 16日夜、高知県土佐清水市出身のジョン万次郎が、アメリカで
ホームステイをした家を保存しようという会の集まりで、会長を務
められている、聖路加病院名誉院長の、日野原重明先生とお会いし
ましたが、相も変わらぬお元気さに圧倒されました。

 この日は、いずれも先生が会長をされている、「新老人の会」の
高知支部の集まりと、上記のジョン万次郎関連の集まりが、高知市
で開かれたのですが、間もなく97歳になられる日野原先生は、こ
の日、県西部の土佐清水市と宿毛市で話をされた後、列車に揺られ
て2時間、高知市で、この二つの会合をはしごされました。

 今年、一度お目にかかった時には、去年は、200回ほど講演を
したと話されていましたが、この夜のご挨拶を聞きますと、5年先
の日程まで詰まっているとのことで、その元気さは、もはや常識で
は測れません。

 と思いながら、ご挨拶に耳を傾けていますと、一つヒントになる
お話がありました。

 それは、先々の日程を入れる時には、単なる約束にすぎないアポ
イントメントではなく、自らが深くかかわることを誓約する、コミ
ットメントを結ばなくてはいけないという教えです。

 なるほど、ただの約束ではなくて、自分が責任をもってかかわっ
ていくとの言質を残すことで、その責任感から、いつまでも元気で
いられるのかと、その原理は理解できましたが、果たして、誰にで
も通用する法則なのだろうかと、若干の疑問もわきました。

 明日も、高知市と県東部の安芸市で、あわせて2回の講演をされ
るとのことですので、ただただ驚くばかりですが、せっかくの教え
をいただきましたので、爪の垢程度のコミットメント精神を、今後
実践してみようかと思いました。

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久々の乗り越し(4月15日)

 東京から高知に帰る途中、電車の中でぐっすりと寝込んでしまっ
たため、久々に電車を乗り越してしまいました。

 14日は、朝の5時半起きで、東京に行ったのですが、翌日の仕
事の準備が夜遅くまでかかったため、15日は、睡眠不足がたたっ
て眠たい一日でした。

 仕事を終えて、羽田に向かった夕方の5時前後は、眠さもピーク
の時間帯でしたから、JRで渋谷から浜松町に向かう車内では、座
らずに立っていこうと心に決めていました。

 ところが、たまたま、すぐそばの座席が空いたため、誘惑に負け
て腰かけたのが、浜松町の4つ手前の五反田でした。

 たぶん、座った途端に意識を失ったのでしょう、目が覚めた時に
は、電車は神田のホームを離れるところでした。

 かといって、あまりにあわてた様子は恥ずかしいと思って、何事
もなかったかのように悠然と、次の秋葉原駅で、ホームに降り立ち
ました。

 それから、おもむろに電車を乗り換えて、再び浜松町を目指しま
したが、あらかじめ、相当な余裕をもって出発していたため、事な
きを得ました。

 こうして、無事高知行の最終便に乗り込みましたが、ここでも、
離陸後間もなく熟睡の態勢に入りました。

 気がついたのは、間もなく着陸に向けて高度を下げますという、
アナウンスが流れた時でしたが、その際に、「お休みのご様子だっ
たお客様には、飲み物のサービスを控えました」というお断りを聞
いて、おやっと感じたことがありました。

 というのも、以前は、「お休みだったお客様には」と、言ってい
たように思ったからです。

 思い違いかもしれませんが、もしそうならば、「お休みだった」
と言ったのに対して、「俺は眠ってなかったのに」などと、文句を
つけた客がいたため、苦肉の策で、「お休みのご様子だった」と、
「ご様子」を入れたのではないかなどと、勝手な推理を働かせてい
ました。

 それはともかく、乗り物の中での二度にわたる熟睡で、朝からの
寝不足は、夜の8時を前に、ようやく解消されていました。

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2008/04/15

事件の教訓(4月14日)

 高知県が行った特定企業への融資をめぐって、当時の担当の幹部
が、背任の罪に問われた事件で、自分を含む県の幹部が、県に対す
る損害の賠償を求められた裁判の和解金を、この日、東京の銀行か
ら振り込みましたが、窓口の前で順番を待ちながら、東京都の肝入
りでスタートした新銀行東京への、400億円の追加出資との、類
似性を考えていました。

 モード・アバンセ事件と言われるこの事件では、当時の県の幹部
が、相手企業に高度化資金を詐取されたことを知りながら、そのこ
とが明るみに出たら困るとの保身の思いから、十分な担保を取らな
いまま県の資金を融資して、県に損害を与えたとして、背任の罪で
実刑の判決を受けています。

 これを、新銀行東京の件と見比べてみますと、東京都の場合は、
都が直接融資をしたのではなく、都が出資をした第3セクター型の
銀行が、融資の主人公ですし、貸付先の企業に、資金を詐取された
といった背景があるわけでもありません。

 しかし、直接の融資であれ、銀行という形を整えた上での融資で
あれ、原則は無担保・無保証という極めてリスクの高い形で、税金
が貸し出されていたことに変わりはありません。

 その結果、これまでに、およそ600件、86億円が、経営破綻
によって回収不能になっている上、3年間の累積で、1000億円
近い負債が生じていると言われます。

 これに対して東京都は、当時の銀行の代表に、全ての責任を押し
付けているように見受けられますが、原則無担保、3ヶ月以内に融
資を実行といった、都の描いたマスタープランが、銀行の現場を縛
っていたとすれば、責任の所在は一概には言えません。

 さらに、東京都は、400億円の追加出資が、この銀行の経営を
立て直すという根拠や道筋を、明確に説明できているとは思えませ
ん。

 実態は、追加出資がなければ、新しい年度を迎えられないという
状況の中で、今すぐ倒さないためにはともかく追加を、との判断が
働いたと推察されますが、それは、危険な追加融資に、共通の心理
状態かと思われます。

 もしそうだとすると、400億円を追加出資しても、なお銀行が
行き詰まった場合には、追加の400億円分に対して、損害賠償の
訴訟はもちろんのこと、刑事も含めての責任追及が、まったく起き
ないとは断言できません。

 特に、これだけ、税金の使い道に、厳しい目が注がれている時代
ですから、万一の場合、400億円の追加融資を、行政の裁量権の
範囲だと言って、逃げ切ることは難しいように思われます。

 それに加えて、回収不能になっている融資の中に、都議会議員の
口利きでもあろうものなら、議会ぐるみで、責任追及の矢面にさら
されることでしょう。

 そうならないことを望むばかりですが、自らが被告の一人となっ
た裁判の、和解金を振り込むために訪れた東京の銀行で、高知県の
事件は、教訓として生かされているのだろうかと、素朴な疑問を感
じていました。

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2008/04/13

島津雨の中を(4月13日)

 鹿児島の知人の結婚式に出席した翌日、13日は午前中、市内見
物に出かけることにしましたが、あいにく降り出した雨を見て、見
送りに来て下さった新郎のお父様からは、これは島津雨といって、
縁起の良い雨ですと慰められました。

 その場では、詳しいことはうかがいませんでしたが、鹿児島では
良いことのある時に降る雨を、島津雨といって喜ぶと言います。
(注)インターネットの鹿児島県のサイトにある、「雑学コラム」
   の中に、「島津雨」の由来が出ています

 その島津雨が降る中、新郎新婦のご案内で出かけたのは、江戸時
代の初めに、島津家の別邸として建てられた「仙厳園」でした。

 桜島大根をかたどった薩摩焼の釘隠しなど、屋敷内には随所に、
築350年の歴史と文化が薫っていますが、特に、今年は、NHK
の大河ドラマ「篤姫」の効果もあってか、雨の中にもかかわらず、
大勢のお客さんで賑わっていました。

 また、「篤姫」効果といえば、同じ市内には、大河ドラマのお陰
で、急に日の目を見た銅像があると言います。

 それは、西郷さんの銅像が見下ろす、県の文化センターの前に立
っている、幕末の島津藩の家老、小松帯刀の銅像で、これまでは、
観光客の関心は、すべて西郷さんの方にいくため、帯刀の銅像に目
をやる人は、ほとんどいなかったそうです。

 ところが、養子に行く前の肝付尚五郎の名で、篤姫の初恋の人と
してドラマに登場するや、演じている瑛太さんの人気も手伝って、
一躍人気者になりました。
 
 一方、西郷さんの銅像はと言えば、もちろん相変わらずの人気で
すが、上野の西郷さんのイメージが強い観光客から、どうして犬を
つれていないのと聞かれるため、観光ボランティアの人が、道を隔
てた公民館前の広場に、犬の人形を置くようになりました。

 そこに並んで、道の向こうの銅像をバックに写真を撮ると、犬と
西郷さんが、観光客と一緒に画面に収まるというわけですが、犬の
人形は、夕方になると、ボランティアの人が持って帰るとのことで
した。

 いやあ、世の中色々あるなと思いながら、島津雨の中を、鹿児島
空港に向かいました。

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新人の牛飼い(4月12日)

 12日午後、知人の結婚式のため出かけた、鹿児島市内で、この
4月から、同じ鹿児島県内に引っ越して、牛飼いを始めたかつての
同僚に、電話をしてみました。

 彼は、去年の12月6日に、僕が知事を退任するまで、随行の秘
書をしていましたので、その意味で一番身近な存在でしたが、この
3月一杯で県庁を退職して、奥さまの実家のある、鹿児島県出水市
で、実家のご両親が営む畜産の仕事の、お手伝いを始めました。

 ですから、いつでも電話はかけられるのですが、せっかくなら、
同じ鹿児島の空の下からと思って、かつて学生時代に、知事のそば
でのインターンに参加してくれた青年の結婚式で、鹿児島に来たの
を機会に、電話をかけてみました。

 すると、同じ結婚式に招かれた、元の秘書課の職員たちが、昨日
家を訪ねてくれたと嬉しそうで、牛飼いを始めて、ようやく10日
たちましたと、いたって元気そうです。

 聞けば、朝は午前5時半に起きて、7時に牛小屋に行くと、あと
は夜の7時まで、83頭の黒牛の世話に明け暮れます。

 もちろん、生き物が相手で、土日はもとより、ほとんど一年中、
休む間もありませんから、朝の7時から夜の7時まで牛の世話をす
ると聞くと、何か大変そうだなあと思ってしまいますが、県庁と違
って、ストレスは、まったく感じなくなったと言います。

 小学2年生の長女を頭に、二人の娘さんも、毎日、畑を駆けまわ
ってご機嫌とのことですので、自分には勤まらない仕事ながら、こ
んな人生もうらやましいなと思いました。

 電話の後、結婚式場で同席した元の同僚からは、携帯で撮った、
彼の新居の写真を見せてもらいましたが、いかにものどかで広々と
した雰囲気が、狭い画面からも十分に伝わってきました。

 出水に鶴が渡って来るまでに、決着がつくかどうかはわかりませ
んが、お互いに、仕事がもう少し落ち着いたら、ゆっくりと訪ねて
みたいものです。

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急な別れ(4月11日)

 11日夕方、一昨日他界した知人の、通夜の席を訪ねて、一般の
参列者より一足早くお別れをしてきました。

 彼は、長く組合運動に携わった後、平和や護憲の運動に尽くした
人ですが、知事になって間もない頃に、同じ組合関係の友人を通じ
て知り合いました。

 当然、活動家としての毅然とした一面や、論理的でしっかりとし
た考え方を持っていましたが、僕の知る彼は、いつも穏やかで、は
にかんだ笑顔の素敵な人でした。

 こんな話をすると、僕が知事として、県の職員団体が加盟する労
働組合、自治労と、長く対立を続けてきたことを知る人は、それな
のに何故、こうした付き合いが生まれたのかと、不思議に思われる
かもしれません。

 とはいえ、今日は、理屈っぽいことを、書きたいと思ったわけで
はありませんので、その説明はしませんが、自分には、労働運動や
平和団体の活動に、一身を捧げてきた知人も数多くいます。  

 そんな方のお一人で、県内の平和運動団体では、亡くなった彼の
前任者に当たる方が、知事を退く直前に、長年ご苦労さまと、知事
室まで声をかけに来て下さいました。

 その時、彼のことを話したのですが、体調を崩したものの、今は
落ち着いていると聞いて、安心していました。

 ところが、一昨日の夜、彼の組合時代の先輩にあたる共通の知人
から、急な訃報を知らせる電話が入ったのです。

 告別式の12日は、前々から、鹿児島に行く約束があった上、お
通夜が営まれる今日は、これもまた、一日中予定が詰まっていまし
たため、夕方のひと時、一般の通夜客が来られる前に、お別れに行
くことにしました。

 関係の方々が、受付の準備などに追われる横を通って、ご遺体の
置かれた部屋に伺いますと、ご両親や奥さまが、待っていて下さい
ました。    

 享年56歳、穏やかな彼の寝顔を見ながら、一つ心に誓ったこと
がありました。

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2008/04/12

ずっと前からねじれてた(4月10日)

 9日に行われた党首討論で、福田総理は小沢さんに、ねじれ国会
へのいら立ちをぶつけていましたが、高知県議会との関係で、十数
年来ねじれっぱなしだったわが身に照らせば、何を今さらの感があ
ります。

 党首討論をライブで見ることは出来ませんでしたので、10日の
朝刊で内容を確認しますと、福田総理は、日銀の総裁人事をめぐる
民主党の対応に対して、「これこそ権力の乱用、人事権の乱用とい
うんです」と、小沢さんに詰め寄ったとあります。

 さらに、民主党側には、政府の提案に、責任を持って対応出来る
人がいないことを指して、「誰と話せば信用できるのか、是非教え
ていただきたい」とも、訴えかけています。

 しかし、たとえば高知県の場合、知事と議会との関係は、長年に
わたってねじれていましたので、副知事、出納長の人事が、自民党
会派を中心とする多数派によって、不同意の通告を受けることはし
ばしばでした。

 これは、高知県だけでなく、他の県でも、いくつも事例のあるこ
とですが、福田さんは、自らが党首を務める党が、「権力の乱用」
や「人事権の乱用」をしていたことを、認められるというのでしょ
うか。

 また、議員の中の誰かに話しをすれば、その他の人が、「俺は聞
いていない」とか「俺を後回しにするのか」と言って、言いがかり
をつけることは議員心理の常ですので、「誰に話せば信用できるの
か」くらいの話は、理解できるとしても、総理自らに、「かわいそ
うなくらい苦労してるんですよ」とまでぼやかれますと、それだか
ら、すべてをなあなあで済ませていく、大連立を模索したのですか
と、嫌味の一つも言いたくなります。

 要するに、ねじれねじれと騒ぎますが、すでに地方では、長年に
わたって、ねじれの下での議会運営や、根回しを廃したがちんこ勝
負を、体験してきているのです。

 こうした地方の実態など、総理はまったくご存じないのかもしれ
ませんが、政党もマスコミも含めて、もっと、地方の経験に学ぶ姿
勢を持っていれば、今さら、ねじれ国会にあわてて、右往左往する
こともなかったのではと思います。

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2008/04/11

裕介さんの部屋(4月9日)

 9日午後、7年前に56歳で亡くなった、漫画家の青柳裕介さ
んのお宅を訪ねましたが、部屋中に描かれた絵や文からは、裕介
さんらしい情と優しさが伝わってきました。

 酒の飲めない僕にとって、飲み友達になれなかったことは心残
りですが、裕介さんには、生前とてもお世話になりましたので、
この日、香美市にあるお宅を訪ねました。

 アトリエを改造した現在のお住まいで、奥さまの香織さんやご
長男とお話をした後、長く裕介さん夫妻が暮らした、別棟の古い
母屋を案内してもらいました。

 奥の座敷には、裕介さんと杯を交わした客人が、彼に求められ
るまま描いた絵が、壁や鴨居の上を飾っています。

 圧巻は、白壁に直接ペンをふるった、ちばてつやさんの「のた
り松太郎」で、土俵に両手をついて仕切る松太郎が、大きく力強
く描かれていました。

 これに対して、玄関に近い居間には、裕介さんが書き残した絵
や文が、所狭しと並んでいます。

 なんとトイレの入り口には、「開かずの室」の札が貼られてい
て、手のひらを突き出して入室を拒む男の絵の下には、この部屋
は、何十年もの思い出が詰まっている部屋ですので、お客様の入
室はお断りしますとの文がつけられていました。

 「いつも使っていたトイレに、他人が入るのが嫌だったんでし
ょうね」という、香織さんの話に耳を傾けながら、ではお客さん
は、どこで用を足していたのだろうなどと考えていました。

 また、天井下の壁には、「酒を口にした後で、人様に電話をす
ることを、我に禁ず」との、3行の文が書かれています。

 これは何ですかと尋ねると、香織さんが、「いつもお酒を飲ん
だ後には、知り合いに電話をする癖があったんですけど、ある時
受けた、酔っぱらった知人からの電話が、すごく不愉快だったも
のだから、その後すぐ、自戒の文を壁に書いたんです」と、説明
してくれました。

 同じ壁には、病を得てからの思いを綴った紙も、何枚か貼られ
ています。

 東京の病院で、余命はわずかと診断された様子は、お医者さん
の絵に「引導」の文字が書き込まれたコマから始まる、ストーリ
ー漫画で表わされています。

 さらに、亡くなる一週間前の日付のついた紙には、ベッドの生
活にもようやく慣れてきた、と書いてありますが、その文字に一
つ一つ、立体的に見せるための影が付けられているあたり、プロ
根性は、最後まで衰えることはありませんでした。

 川、海、風、木漏れ日、そして入道雲と、ふるさと高知の自然
をこよなく愛した裕介さん、あわせて、少年の日の心を忘れたく
ないと言っていた、無邪気なままの裕介さんの、思いの幾ばくか
を吸い込んで、裕介さんの部屋を後にしました。

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2008/04/10

 もう一つの都おどり(4月8日)

 8日は午前中から、県中部の旧仁淀村にある、枝垂れ桜を見に行
きましたが、その後立ち寄った小さな集落で、安徳天皇ゆかりの伝
説を、たっぷりと勉強しました。

 この村にある火よけの神様、秋葉神社のお祭りは、高知県を代表
するお祭りですので、十数年前に、一度見に行ったことがあるので
すが、その神社のすぐ近くにある、樹齢200年と言われる枝垂れ
桜は、まだ見たことがありませんでしたので、知事を退いて、少し
時間にゆとりができたのを機会に、その華麗な姿を見に出かけまし
た。

 その後、さらに山あいを入った、都(みやこ)という集落に足を
運んだのですが、ここは、最近NHKの番組で取り上げられたこと
から、かなり有名な地区になっています。

 というのも、都の名が示すように、平家の落人が開いた集落で、
今では人の住む家は4戸と、過疎化が進んでいる分、中山間の風情
がそのまま残されているからです。

 たとえば、平清盛の孫にあたる安徳天皇は、壇ノ浦の戦いに敗れ
て、入水したというのが定説ですが、県内の越知町の横倉山には、
宮内庁からも参考地に指定されている、天皇の陵がありますし、こ
の都にも、ここが安徳の最期の地だという、安徳天皇陵伝説地があ
るのです。

 その名も「白王神社」、つまりは「皇」の字を二つに分けたのが
由来と言われる神社の、由緒書きを読んでみますと、山内神助と名
乗る人物をはじめ、75人の平家の落武者が、安徳天皇とともにこ
の地に住み着いて、一部の者が越知町の横倉山に移った後も、神助
はこの地にとどまって、建久6年(1995年)8月22日に亡く
なった、安徳天皇を看取ったとあります。

 天皇陵の伝説の地や、この神社をはじめ、地域を紹介して下さっ
た方が、神助から数えて46代目の現在のご当主と聞けば、ロマン
はさらに深まりますが、安徳天皇の命日にあたる旧暦の8月22日
には、都おどりが開かれると言います。

 はて、集落が4戸だけとなった今、都おどりはどうしているのだ
ろうか思いましたが、それと同時に、京都の祇園で開かれる、都お
どりが頭に浮かびました。

 こちらは、祇園の歌舞練場と呼ばれる劇場に、芸者さんや舞妓さ
んが勢ぞろいして華やかな踊りを披露する、お花見時の京の風物詩
の一つで、会場には、過疎が進む山里の風景とは、対極をなすよう
な賑わいがあります。

 神助らの一族も、かつては、華やかな都を体験したのかもしれま
せんが、盛者必衰のならいの中で、京都から遠く離れた高知の山中
に、安住の都を求めることになったのでしょう。

 もう一つの都に、もう一つの都おどりがあることを知って、歴史
の深みを感じました。

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たとえ話の使い方(4月7日)

 日本銀行の総裁人事が、大詰めを迎えていますが、先月下旬、新
聞各紙のコラムが、その混乱ぶりを、例え話を使って上手に評して
いましたので、参考までに書き留めておきます。

 その一つは、先月20日付の朝日新聞の「天声人語」で、財務次
官経験者の登用に、2度続いて失敗をした顛末を、「下手な弓攻め
を見るよう」と評していました。

 「最初の矢は相手のかたくなな鎧にはじき返され、うろたえて放
った二の矢は、ろくに敵陣に届かずに落ちた」という書き出しで、
「果たして、射手の腕が悪いのか、敵の鎧が強固すぎるのか、それ
とも矢がお粗末なのか、見ている者にはさっぱりわからない」とい
った筋書きです。

 一方、同日付の毎日新聞の「余録」は、同じ局面が堂々巡りのよ
うに繰り返される様子を、将棋の千日手に例えていました。

 それも、単なる例え話には終わらず、その中に、千日手を避けた
ために敗れた木村義雄名人の逸話と、そんな名人の指し方を批判し
た将棋好きの作家、坂口安吾の話が折り込んであって、「安吾も、
政治の千日手の恐ろしさには、思いが及ばなかったようだ」と締め
くくるあたり、かなりの手だれの技です。

 もちろん、双方の切り口は異なっていますが、自分が狙った切り
口に合わせてたとえ話を選ぶあたり、文章を書く者には、とても参
考になりました。

 寄席の大喜利なら、座布団一枚といったところでしょうが、それ
から2週間余りが経過するうちに、わざ師のコラムニストも書きよ
うがないくらい、ねじれた状況になってきました。

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2008/04/08

拾った財布は届けよう(4月6日)

 6日午前、東京で取材を受けていた時、相手の記者から、福田政権と掛けて、道に落ちていた財布を拾った人と解く、その心はというたとえ話を聞きました。

 取材の内容は、福田政権をどう見るかといったことなのですが、記者の方が、ある人が、福田総理を、道で財布を拾った人にたとえたと、教えてくれました。

 その心は、総理になる気もなかったのに、道で財布を拾ったのと同じように、突然総理の座が懐に転がり込んできたため、財布の中身をどう使ったらいいのかわからない、というのです。

 これに加えて、野党の人からは、財布を拾ったのはいいものの、中身は、前の人たちが持っていた借金の証文や、請求書ばかりで、困っているのではとの解説もあるそうです。

 いかにも、ありそうなたとえ話ではありますが、それを聞いていて、それならばなおのことと思ったことがあります。

 それは、財布を道で拾ったのなら、なおさらのこと、財布の中を開けてみる前に、まずは、交番に届けるのが筋ではないかということです。

 考えてみれば、3分の2の議席を勝ち取った小泉さんが、当分食うには困らないだろうと、気前よく投げた財布を、安倍さんが受け取ったものの、途中でいくつもの石ころにつまずいて、ついに、道に財布を落としてしまいました。

 これを拾ったのが、福田さんということなら、いくらなんでも、そろそろ交番に届け出て、誰の財布なのかを、尋ねなくてはいけません。

 つまりは、解散を届け出て、これは誰の財布ですか、このまま使ってもいいですかと、国民に問いかけなくてはいけないということになります。

 たとえ話を考える人は、最後の落ちまで考えてほしいものだと思いながら、その後の取材に答えていました。

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同窓生の効用(4月5日)

 5日午後、東京の母校で開かれた、卒業生が集うパーティーに参加するうち、同窓生の説得が功を奏したという、あるエピソードを思い出していました。

 僕が卒業した高校は、東京の都心にある中高一貫の男子校で、自分が在学した当時は、先輩の中に、名の通った政治家がいた記憶はないのですが、二世議員はなやかなりし現在、同窓生の中には、総理経験者である兄の龍太郎や、現職の総理の福田さんなど、数多くの有力な政治家が名を連ねています。

 その母校で、ホームカミング・パーティーという、卒業生が集う会があるというので、どんな人が来ているのだろうと思って、出席してみました。

 すると、やはり母校への思いの強い方が多くて、生まれつき、組織への帰属意識が弱い僕には、少々苦手な雰囲気もありましたが、その一方で、同窓生の結びつきはあなどれないと、あらためて実感しました。

 と同時に、衆参のねじれの中で、同窓生の説得が功を奏したといわれる、与野党のかけ引きのエピソードを思い出しました。

 それは、ある古参の議員にうかがった話ですが、去年の参議院選挙の後、与野党の議席が逆転した中で、参議院の予算委員会の委員長を民主党に取られては、政権運営が大変になると、元総理らの実力者が、同じ大学の同窓に当たる民主党の幹部を招いて、どうにかならないかと働きかけたのだそうです。

 その結果、その野党幹部が、「小沢さんには私が話をつける」と引き取ってくれたため、予算委員長の席を取られても、致し方ない状況の中で、自民党の委員長が誕生したといいます。

 この話を聞いたのは、去年のことでしたので、その古参議員は、このエピソードを例に引きながら、やがて争点になる道路特定財源に関しても、自民党の担当者が、早いうちに、民主党の窓口になる藤井裕久さんと話をつけておかないといけないと、話されていました。

 その心は、「道路特定財源の議論は、前回までは、自民党内にある、構造改革派との調整で済んだけれど、今度は野党を相手にするのだから、落としどころを事前に探っておかないと、にっちもさっちもいかなくなる」というものでしたが、結果はその通りになりました。

 つまり、参議院の予算委員長を選ぶ時には出た助け船が、道路特定財源では出航しなかったわけですが、ねじれ国会のおかげで、これまで国民の目に触れなかったことが、次々と明るみに出てきている今、変な助け船が出て来て、再び物事を見えにくくしてしまうことを、決して歓迎すべきではありません。

 しかし、日銀総裁の問題のように、双方が意地を張り合ったままでいるよりも、誰かが助け船を出す方が、国益に沿うと思われる場合もあります。

 話は違いますが、C型肝炎訴訟の解決にあたって、総理の期待する回答を示し得なかった役人に代わって、議員立法による別の対応策を提示したのは、福田総理も僕も出た高校の同窓生にあたる、実力派の議員だったと聞きますが、これも、患者さんのためには、ハッピーな助け船だったと思います。 

 この日、福田先輩は、洞爺湖サミットの会場の視察に出かけていましたので、もちろん、母校の会には参加されませんでしたが、少しうるさそうな先輩方に囲まれながら、それでも、助け船の効用を思い浮かべながら、同窓生は大切にしないとと、頭の中で考えていました。

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2008/04/04

社会実験のチャンス(4月4日)

  道路特定財源は、地方の取り分として、従来通りの額を確保した上で、これを一般財源化すれば、分権型社会を実感するための、貴重な社会実験が出来ると考えています。

 47の都道府県知事の全員が、道路特定財源の堅持を訴えてきましたが、その気持ちはよくわかりますし、私も、現役の知事であれば、その大合唱の輪に加わっていたでしょう。

 その理由は二つありますが、一つは、国土交通省への慮りで、どの道路に予算をつけるかの権限を、国の側が持っている中で、あえて国の嫌がることを言わないのは、人間として当然の心理です。

 もう一つは、三位一体の改革が残した教訓で、補助金などの一般財源化を求めたものの、結果的には、地方交付税の大幅な削減だけに終わった経験から、地方への、本格的な財源の移譲が期待できない以上、道路という紐がついているとしても、これまで地方が受け取っていた額が、減らない方がいいという、これまた当然の意識が
働きます。

 このように、地方の首長は、自分たちの力では、国と地方の力関係を変えることは出来ないという現実を前に、地方分権の理想をひとまず横に置いたうえで、特定財源の堅持を訴えていますので、これを、地方の切実な声だといって、特定財源の継続を正当化することには、いささか無理があります。

 かといって、そのまま一般財源化すれば、財布を持つ人が、国土交通省の役人から、財務省の役人に移るだけですから、地方にとって、決してプラスにはなりません。

 では、どうすればということになりますが、税収は今のままで、しかも、その使い道を自由に変えられるとの前提に立つなら、道路特定財源のうち、従来地方が得ていた分を、そのまま地方の取り分として確保したうえで、それを一般財源化することが、分権に向けた社会実験として、数々の意味があると思います。

 というのも、たとえ一般財源化をしても、従来、道路財源として地方が得ていた分は確保するのですから、これまで通り道路を作りたい地方は、全額を道路につぎ込むことで、道路整備を続けることが出来ます。

 また、このことによって、計画されている道路整備が必要なものかどうかを、全国一律の基準を設けて、チェックしていこうといった不毛な議論にも、終止符を打つことが出来ます。

 と言いますのも、例えば、東京の外環状道路のように、都心部の渋滞解消のために作る幹線の道路と、高知県のような地方の、日々の暮らしの安全や安心を守る道路とでは、目的も交通量の予測も全く違いますから、これらの、全国の道路の計画を一覧表にして、その必要性に順位をつけるなどということは、出来るわけもありませんし、すべきでもありません。

 これに対して、道路財源として配分されていた額と同額を、地方に確保したうえで、他の用途にも使えるように一般財源化すれば、地域の住民が、選挙という民主的な手続きを通じて、事業の必要性を判断する仕組みが作れる、というのが私の提案です。

 より具体的に言えば、首長の選挙に出るA候補が、「従来、道路に特定されていた財源を、今後もすべて道路整備に充てることで、任期中の4年間に、これだけの道路整備を進めます」と、マニフェストに書き込めば、対抗するB候補は、「一般財源化された元の道路財源のうち、半分は引き続き道路整備に使いますが、残りは、福祉と教育に回します。ただ、道路整備の手法を変えることで、向こう4年間に、これだけの延長距離を確保します」と、真っ向から政策をぶつけ合うのです。

 こうすることで初めて、マニフェストが、また首長の選挙が、地域の住民にとって、より身近なものになります。

 もう一つ、このことは、地方分権を実現できるかどうかの、大きな社会実験にもなります。

 というもの、本格的な分権を進めるには、権限よりもむしろ、財源をどのようにして地方に移すかが、一番の課題になりますので、全国知事会などでは、地方共同税という配分方式を提案していますが、地方の中にも、企業などが集中をした大都市部と、そうでない地方との間には、条件に大きな違いがありますので、すべての税収にわたって、一度に配分方式を決めることには、多大の困難が予想されます。

 ですから、その前段として、道路特定財源を試金石に、一般財源化をしたうえで、地方の取り分は、地方団体が主体的に、配分の仕組みを考えるように、試みてみては思います。

 逆に、その配分さえ出来ないのなら、地方共同税の構想も、絵に描いた餅になってしまいます。

 暫定税率が3月31日で切れ、次は一般財源化をめぐって、自民党内が揺れていますが、国の懐の中だけでの一般財源化の議論ではなく、地方分権改革の試金石としての位置づけを、考えてほしいものです。

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「せんたく」に選択(4月3日)

(これから数回は、3月までに書きためたものを公開します) 

 知事の有志や有識者が参加して、最近発足した「せんたくは、代表を務める、前の三重県知事の北川さんと、当初語り合っていた方向とは、まったく違った内容になりましたので、参加を見合わせようと思っていたところ、「せんたく」の側からも、参加を遠慮してほしいと、わざわざ連絡を受けました。

 話は去年の11月に遡りますが、12月6日をもって、高知県知事の職を退くにあたって、長い間お世話になった北川さんを、東京西新橋にある事務所に訪ねました。

 その時、北川さんから、「今の政界は、シャッフルしないといけない。そのために、この指とまれのマニフェストを作らないか」呼びかけられました。

 この提案を自分は、政界の再編を目指すプレイヤーを、支援する運動と受けとめましたので、分権や環境など、掲げる旗の具体的な項目も含めて、話ははずみました。

 次に北川さんの事務所を訪ねたのは、それから2ヶ月ほどたってのことですが、この時には、1月20日に、発起人の準備会の発足が決まっていました。

 ただ、参加予定の顔ぶれを見ますと、宮崎県の東国原知事など、世間受けを意識した面が強いうえ、経済界や労働界の方々、さらには元官僚に学識経験者と、従来型のバランス重視で、強い思いを持った仲間の集まりではありません。

 これでは、北川さんが目指すような、脱官僚や、脱中央集権の運動を起こせるわけがない、と疑問を持ったのが、すれ違いの始まりでした。

 それでも、「これは平成の民権運動だ」と語気を強めながら、日本を「洗濯」すると言った竜馬の言葉に、日本の将来を「選択」するという意味を重ね合わせて、平仮名の「せんたく」を組織の名前にしたいという、北川さんの意気込みをくじいてはいけないと考えて、「2月3日に、議員連盟も含めた発足の会を開くので、出来れば出席してほしい」という誘いを、快く受けました。

 ところが、その後、2月3日の予定は延期になりましたし、北川さんが、参加予定の国会議員に釈明に回っているといった、不協和音をうかがわせる話も伝わってきました。

 そうこうするうちに、参加する知事や、国会議員の名前が明らかになってきましたが、その顔ぶれを見て、これでは、とてもおつき合いできないと見切りをつけました。

 というのも、例えば、地方の代表の一人として参加される、東国原さんは、この時点で、道路特定財源の堅持を、声高に主張されていましたが、知事という立場上、当然のこととは言え、こうした、構造改革に真っ向から対立する考え方と、日本の将来の選択とは、相いれないと思います。

 また、当初は、自民党と民主党の、5人ずつに声をかけると言われていた議員連盟のメンバーも、100人を超えて、ごった煮の状態にまでふくれ上がったため、安全保障政策でも経済政策でも、目指すような質の高いマニフェストが、議論ができる状況とは思えません。

 さらに、議員連盟の窓口になっている方の中には、三位一体の改革の際に、族議員の代表として、中央省庁の側で動いた方もいますので、分権改革や生活者の視点からの議論も、到底望めないと感じました。

 こうしたことから、重ねてのお誘いがないのを幸いに、わざわざ断るのも角が立つと考えて、しばらくは、かかわりをもたないことにしました。

 そんな中、北川さんから電話が来たのは、2月の末のことで、話は、「国会議員がナーバスになっているので、今回は、参加をご遠慮願いたい」というものでした。

 先ほども言いましたように、自分が受けとめた当初の構想とは、かけ離れた内容になっていましたから、そもそも参加の意思はなかったのですが、とやかく言うことでもありませんので、「はい、わかりました」と、自然体で申し出を受けました。

 いわば、「せんたく」に入られると困るメンバーとして、選択された形ですが、100人を超える色とりどりのグループの中で、あえて、選択していただくだけの価値があるのかと、自分の立ち位置が持つ意味を、再認識した思いでした。

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リハビリを終えて(4月2日)

 2日午前、記者会見を開いて、次の総選挙に、高知1区から立候補することを表明しましたが、知事を退職してから4ヶ月近くの間は、16年ぶりの生活の変化の中で、失敗を繰り返す毎日でした。

 というのも、16年務めた知事の時代には、いつも秘書がそばにいて、日程の手配や段取りから、ホテルなどの支払いに至るまで、身の回りのことは、すべて代わってやってくれていたからです。

 ところが、普通の人に戻った今は、当然のことながら、自分のことは自分でやらないといけませんので、特に県外に出かけた時などには、何かと失敗を繰り返すことになります。

 例えば、東京で地下鉄に乗ろうとした時、券売機の上の路線図を見ますと、16年の間に、知らない路線がいくつも出来ていて、行き先の駅を見つけるのにも一苦労でした。

 ようやく、160円の運賃を確認して、あらためて券売機の画面に向き合いますと、乗り継ぎの選択肢がいくつかありますので、どれを押したらと目をこらしているうちに、後ろに並ぶ人の列から、「このおじさん、いつまでもたもたしてるんだ」といった、無言の圧力が伝わってきます。

 その圧力に負けて、焦ってパネルに手を伸ばしたまではよかったのですが、あわてて190円にタッチしてしまって、30円損をしてしまいました。
 
 また、羽田空港から高知に戻るにあたって、航空会社によって、ターミナルビルが異なっていることは、当然知っていましたが、知事時代には、秘書や東京の事務所長がついていてくれましたから、どちらのビルと意識することもありませんでした。

 これに対して、今は一人でモノレールですから、間違えてはいけないと意識していたのですが、行きが全日空でしたので、帰りも同じだと思い込んで、終点の空港第二ビルまで行きました。

 ところが、重い荷物を手に搭乗口まで上って、出発便のボードを見ますと、自分の乗る便がありませんので、これはおかしいと、ポケットからチケットを出してみますと、何と日本航空ではありませんか。

 あわててエスカレーターを3階分駆け降りると、再びモノレールで、第二ビルから第一ビルに移動しましたが、ここでも、150円の無駄な出費をしてしまいました。

 さらに、2月の初めに北海道に出かけた時には、財布の中身は千円札2枚だけといった状態で、千歳空港に降り立ちました。

 これも、知事時代に、現金やカードを持たずに、外に出る癖がついていたからですが、あわてて高知から送金してもらった結果、ここでも、無用な送金手数料を支払うことになりました。

 といったことで、知事をやめてからの4ヶ月近くの間は、動くたびに無駄な出費を繰り返す日々でしたが、竜宮城とは言わないまでも、県庁の知事室というお城の中に、16年間こもっていましたため、生活の勘がかなりずれていたことを、実感させられました。

 ただ、当り前の暮らしに復帰するためのリハビリも、徐々に効果が現われてきましたので、その感覚が再び鈍らないうちに、次の目標に向けて進んで行きたいと思います。

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