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2008年7月

2008/07/27

B-29が落ちた(7月23日)

 23日、高知市内の挨拶まわりでお世話になった方から、昔話のあれこれを聞きました。

 その一つが、小学生の時、B-29が墜落するのを見たという話です。

 たぶん高射砲があたったのでしょう、煙を吐きながら低空飛行を続けていたと思うと、やがて、もの凄い音が聞こえました。

 B-29が落ちたのは、高知市の神田(こうだ)という地区で、友達と一緒に、現場まで見に出かけたそうです。

 中には、事前にパラシュートで脱出した兵士もいたようですが、現場には、3人の乗組員の遺体が散らばっていました。

 その方からは、その時、現場を見ての子供らしい反応があったことを聞いたのですが、公にするにはふさわしくない話ですので、ここでは省きます。

 などなど、午後まで、ご一緒していただく中で、戦争中などのお話を聞きましたが、わずか60年余り前のこととも、もう60年余りも昔のこととも、どちらとも言えるお話だなと思って耳を傾けました。

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共通の話題は(7月22日)

 22日午後、ある週刊誌の企画で、中学・高校から大学を通じての先輩である平沼赳夫さんと、初めて対談をしました。

 場所は、平沼さんの東京の事務所でしたが、取材側のスタッフが揃うまで、二人で話をする時間がありました。

 最初に話題になったのは、共通の知り合いであるお医者さんのことで、平沼さんが、脳梗塞で入院をした時に、とてもお世話になったといいます。

 それは、郵政民営化に反対して、無所属で当選を果たした12人のうち、平沼さんを除く11人の、自民党への復党を祝う会が、都内の料亭で開かれた時のことです。

 平沼さんが、主催者として、乾杯の音頭を取ろうと立ち上がった途端、地球がグルグルと回るような状態になりました。

 本音では、そのままその場に横になりたい気持ちだったそうですが、自分が声をかけた会である以上、すぐ帰るわけにはいかないと、両側の肘掛に手をついて体を支えたまま、40分我慢をしました。

 入院後に、くだんのお医者さんからは、そんな無理をしてはいけないと注意を受けたそうですが、そのお医者さんは、北関東の病院にお勤めにもかかわらず、毎日、平沼さんの入院先の病院に顔を出してくれたといいます。

 このお医者さんには、我が家も、長くお世話になっていますので、母の時も兄の時も、平沼さんと同じように、毎日病室をのぞきに来て下さったと、当時の思い出話を紹介しました。

 もう一つの共通の話題は、学校のことで、中学・高校から大学に至るまで、ずっと先輩にあたります。

 このうち、東京の私立の中学・高校の同窓生には、兄や現在の福田総理をはじめ、高校3年の時に平沼さんと席を並べていたという与謝野馨さんなど、有力者と呼ばれる人たちが顔を揃えていますので、二世議員が、いかに多くなったかの証かもしれません。

 また、この他にも、今のままの自民党や民主党ではだめだという点は、共通の思いですが、集団的自衛権をはじめとする外交や防衛に関する考え方など、明確に異なる点もありますので、以前、日本経済新聞のインタビューの中では、平沼さんとの連携の可能性を聞かれて、あんな右寄りの人とは一緒に出来ないと、答えたことがありました。

 そのことを、平沼さんに話すと、「僕は、当り前のことを言っているつもりなのに、右翼だって言われるんだよ。皇室のことを発言するからかな」と、苦笑いをされながら、帰りがけには、共に学んだ慶応大学の祖である福沢諭吉の著した、「日本皇室論」をいただきました。

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ブログのまとめ書き(7月21日)

 この日は、たまっていたブログを、8日分まとめ書きしました。

 昨夜は、県東部の北川村にある、「モネの庭」で開かれた、バイオリン奏者の古澤巌さんのコンサートを聞きに行きました。

 古澤さんとは、私が知事になって間もない頃、知人の紹介で知り合って以来の縁ですので、高知での久し振りの演奏会に足を運んだのですが、観客が150人しか入らない、レストランでの小さなコンサートにもかかわらず、思いの入った素敵な演奏会でした。

 ですから、現在、高知で開催中のパビリオンのない博覧会、「花・人・土佐であい博」の行事の一環として、きっと、応分の予算が補てんされているのだろうなどと、余計なことも考えてしまいました。

 そんなわけで、夜の帰りが遅くなりましたので、朝は思い切り寝坊をしました。

 明けて21日の「海の日」は、夕方まで予定がありませんでしたので、しばらくサボっていたブログを、まとめて書いてみました。

 振り返ってみれば先週は、2度のテレビ出演があったため、結構くたびれる1週間でしたが、8日分のブログをまとめ書きするのは、もっとくたびれることでした。

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断酒セミナーに参加して(7月20日)

 この日は、午前中、高知市内で開かれた、断酒会のサマースクールに参加しましたが、アルコール依存症は、あくまでも病気だと再認識しました。

 高知は、良くも悪くも酒文化の国で、以前から、酒にまつわる話題にはこと欠きませんでしたから、酒の害を訴える断酒会も、全国的に見ればかなり早い時期から、活動を始めていました。

 そんな中、知事時代の私は、飲酒運転をした県職員は即刻免職など、これまた、酒に関して、わりと刺激的な話題を振りまきましたので、断酒会が開催する会には、よくお誘いを受けていました。

 そのご縁でこの日も、毎年恒例のサマースクールに声をかけていただきましたので、来賓としての挨拶をすませた後、県外からお招きをした講師のお話に耳を傾けました。

 この方は、三重県の診療所で、アルコール依存症の患者や、家族のケアにあたっているお医者さんで、講演では、アルコールが脳に与える影響を、詳しくお話しして下さいました。

 それががわかったきっかけは、偶然だったそうですが、ネズミの頭のある部分に、電気的な刺激を与えると、ネズミは、その刺激の気持ちよさが忘れられなくなって、電気が流れた場所に行くようになります。

 また、サルに酔いの楽しさを教えると、酒が出るまで、レバーを押し続けるようになるそうで、2000回であきらめるものもいれば、6000回まであきらめないものもいました。

 といいますと、禁断症状の苦しさが、原因のようにも見えますが、そうではなくて、アルコールそのものの楽しさが、忘れられなくなっているためなのだそうです。

 そのことは、脳の映像からもわかることで、アルコール依存症の人は、お酒のビンを見ただけで、飲みたいという反応が脳に現れます。

 つまり、育った環境がどんなに良くても、どんなに意志の強い人でも、アルコールによる気持のよさを体験するうちに、脳の構造が影響を受けると、依存症になってしまうとのことでした。

 逆に言えば、意志の弱い人だから依存症になるという考え方は、正しくないということで、病気だ、だから治るという認識を持つことが大切だというのが、講師の先生の結論でした。

 そこから抜け出すには、長い間酒を完全に断つことで、脳の細胞をよみがえらせるほかないとのことで、厄介な病気だと実感しました。

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2008/07/21

広末涼子も選手だった(7月19日)

 19日は一日中、県内の中学生の陸上競技の大会に出席して、表彰式のプレゼンターを務めました。

 というのも、自分が、高知陸上競技協会の、名誉会長の職をいただいているからなのですが、県中部にある春野総合運動公園の陸上競技場で、一日を過ごす中で、陸上競技の関係者と楽しい会話がはずみました。

 一つは、マラソンに関することで、今は42キロ余りの距離だから、男の方が記録がいいけれど、脂肪を貯める力は女性の方がはるかに高いので、500キロマラソンがあれば、女性の方が記録はいいはずだという話です。

 となれば、生涯マラソンとも言える人生競争では、女性の方が持久力があるのも当然かと思いました。

 また競技を見ていますと、1500メートルのレースが始まる前に、役員の一人が、バックスタンド側にあるスタート地点の係に電話をいれて、「2列にしてないだろうね。ラインを伸ばしてでも、1列にしないと駄目だよ」と指示をしています。

 聞けば、中学の大会でも、ゴールの地点ではカメラを使っての判定になりますから、1000分の1秒までの差が測れるのですが、2列にしてスタートしますと、体の厚みだけでも、1000分の5秒くらいの開きになってしまうので、写真判定の意味がなくなるというのです。

 なるほどと思いながら、でもそれなら、ラインの内側と外側でも、かなりのハンディが出るのではと思って尋ねてみました。

 すると、ラインは直線ではなくて、外側が前に出るように弧を描いているとのことで、そんなきめ細かい配慮がされているのかと感心をしました。

 走り高跳びには、中学生の全国大会の標準記録に、あと一歩の選手がいましたので、彼の跳躍を遠くから応援したのですが、残念ながら記録の突破はなりませんでした。

 その様子を見ていて、関係者の一人が、踏み切りがばらつくので、あれを直せば記録も伸びると言いますと、別の方が、「それは高校に入ってからでいい。中学のうちに伸ばしきることはない」答えられるなど、専門家の話は、それぞれにためになりました。

 そんなやり取りに加わっていると、一人の方が、そう言えば広末涼子も、中学時代はハイジャンプの選手で、この大会にも出ていたんですよと言われます。

 そこで、成績を問うと、確かな記録は覚えておられませんでしたが、それほど飛び抜けた選手でなかったことはわかりました。

 などなど、表彰式のプレゼンターを務める合間に、色々な話をうかがえた一日でした。

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そこまで言って委員会(7月18日)

 18日は、大阪に日帰りの出張をして、読売テレビのスタジオで、「たかじんのそこまで言って委員会」の録画どりをしました。

 こうした、ひな壇形式の番組に出るのは初めてでしたので、事前に、スタジオの見学や、流れの説明があるかと思いきや、プロデューサーからの簡単な説明だけで、後は、お弁当をいただいて本番を待ちました。

 それでは、スタジオへと呼ばれますと、もうほとんどの出演者はスタジオに入っていて、私と、元宮城県知事の浅野さんとが、最後にスタジオに呼びこまれました。

 スタジオ内のお客様に頭を下げて、指定の席に座りますと、間もなく、司会のやしきたかじんさんと辛坊治郎さんが入って、司会の席につきます。

 感心したというか驚いたのはそこからで、二人が司会席に立つやいなや、「本番5秒前」の声がスタジオ内に流れます。

 そして、5・4・3・2・1で再び扉が開くと、前面から数台のカメラが入ってきて、本番に突入するのですが、このスピード感は、これまでになかった体験で、いきなり雰囲気に飲まれそうになりました。

 しかし、ここで飲まれては負けと思って、一息吸って気持ちを整えていますと、その時すでに、たかじんさんと辛坊さんは、オープニングトークを始めていました。

 始まりがこれなら終わり方もスマートで、最後の話題を終えて、司会のお二人が、番組のDVDのPRを済ますと、そのまま、たかじんさんがスタジオから消え、あれよあれよという間に、「はい、お疲れ様でした」という声が、スタジオに響いていました。

 初出演を終えての印象は、かなり事前の勉強が必要な、ハードな番組だということでしたが、あわせて、辛坊さんの能力の高さにも感服しました。

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大阪らしい人(7月17日)

 17日夜、一緒に食事をした方から、かつて仕えたことがあるという、いかにも大阪らしい人物の、生き様の話を聞きました。

 その方は、鉄の関係の仕事をされていましたが、野球の張本さんと親交があったことから、韓国の大手の製鉄企業とパイプが出来て、鉄鋼の輸入を始めたという人物です。

 当然、当時の世の中では、いわば国賊扱いで、総すかんの状態になったようですが、それでもめげずに社業を広げました。

 さらに、大阪のりんくうタウンの事業に手をつけた時には、張本さんに迷惑がかかってはいけないと、事業の上での関係を切るのと同時に、スポーツと芸術の町にしたいと言って、K-1につながる空手道場にもあたりをつけました。

 この事業は、うまくは行きませんでしたので、仕事の上では有為転変を経験されたわけですが、その人がかなわないという人物が、一人いたそうです。

 ただ、この人物は、色々な意味で世間の尺度を超えた人ですので、ここではその話は省きます。

 自分も、NHKの記者として、4年間大阪で取材をしましたが、大阪の町には、危なくもあり面白くもある人が何人もいました。

 この人も、そんな大阪らしい人物の一人だなと思いながら、昔の部下にあたる方のお話に耳を傾けていました。

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流通の力はだれの力か(7月16日)

 16日の朝刊で、昨日全国一斉に行われた、20万隻の漁船の一斉休業の記事を見て、流通の力を考えてみました。

 今回の一斉休業は、言うまでもなく、燃料代の値上がりがきっかけになっていますが、漁業も農業も以前から、生産者の側に価格を決める力がないことに、最大の問題点があります。

 特に、スーパーなどの量販店が、大きな力を持つようになると、バイイング・パワーという言葉が生まれるくらい、流通の側が大きな力を持つようになってきました。

 中でも魚は、骨を取り除くのが面倒臭いという人が増えてきた結果、サケやマグロといった、輸入物の多い、大振りの魚が主流を占めるようになってきて、ますます、生産者側の力が弱まっています。

 ですから、燃料代の高騰には、緊急事態として、出来る対応を考えないといけないでしょうが、かといって、漁船がほとんどいないような港に、コンクリートを流し込んできた役所が、その一方で、限られた財源の中から、いつも通りの補助金をひねり出しても、この状況の中ではらちが明きません。

 ではどうしたらと頭をひねるにあたっては、流通の力といわれる力の根源を、考えて直してみる必要があります。

 というのも、確かに、漁業や農業の生産地の側に、直接値引きのプレッシャーをかけているのは大型の量販店ですが、その背後には、骨を取る手間を嫌がる消費者や、少しでも安いものに飛びつく消費者がいるからです。

 こう考えてみると、量販店の力、流通の力と言われるものは、突きつめれば、我々消費者の力の寄せ集めということになりますので、その消費者の考え方と行動が変わらない限りは、生産地の側にとって、先行きはさらに難しいことになります。

 ここで、結論を書けるような簡単なことではありませんが、少なくとも、現象面に対する、選挙目当ての票ほしさの支援だけで、先が開ける話でないことは間違いありません。 


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振り込めサークル(7月15日)

 15日午後、警察庁と法務省が、振り込め詐欺を未然に防ぐための、アクションプランをまとめたとのニュースを見て、先日、同じ治安当局の幹部から聞いた話を思い出しました。

 このアクションプランは、ATMの周辺での携帯電話の利用を制限したり、サングラスやマスクをかけた人が、ATMを利用することを制限したりするといった内容ですが、これから、携帯電話の事業者や金融機関に、協力を要請するとのことでした。

 しかし、振り込め詐欺の被害は今年5月末までに、137億円余りにも上っていて、過去最悪の水準に近づいていますので、役所に言われるまでは動かないという姿勢は、いささか腑に落ちません。

 それはともかく、このニュースを見ていて、先日治安当局の幹部にお会いした時、振り込め詐欺に関して話されていたことを思い出しました。

 それは、振り込め詐欺の犯人グループに関わることで、何となく、組織暴力に絡んだグループの犯行かと思っていたのですが、そうではないから問題なのだと言われます。

 ではどんなグループがと聞きますと、学生やその世代の若者が、サークル活動の乗りでやっている例が、増えているとのお答えでした。

 いわば、振り込めサークルですが、その幹部によると、この世代の人がこうした犯罪に手を染めて、楽にお金を手に入れる術を体験をすると、一生その道から抜け出せなくなるので、犯罪を抑止する観点からは、極めて憂慮すべき事態だというのです。

 それだけに、今のうちに、振り込め詐欺の芽を摘んで、サークルの乗りで詐欺を働いている連中を、捕まえないといけないと力説されていましたが、そうした思いが、このアクションプランの背景にもあるのだろうと思いました。

 となると、現在の被害の大きさだけでなく、将来の社会不安にもつながる重大事ですので、ますます、関係する事業者の責任は重いと感じました。

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キムタク総理を生むもの(7月14日)

 この日最終回を迎える、木村拓哉さんが主演するドラマ「CHANGE」を、しっかりと見ようと思いながら、時間を間違えて、後半だけを見る羽目になりました。

 もともと、テレビのドラマを見る習慣がないため、これまでは「CHANGE」も、ちらちらと見るくらいでした。

 ところが、自分の入っているメーリングリストの中でも、朝倉総理への賛辞の声が出てきますので、これはちゃんと見ないといけないと思っているうちに、最終回を迎えてしましました。

 もちろん、「月9」の言葉を知らないわけではありませんでしたが、なぜか10時スタートと勘違いしてしまったため、せっかくのワイドだったのにもかかわらず、後半の30分余りを見るだけになりました。

 それでも、話題になった、キムタク総理が解散総選挙を告げる、超ロングスピーチのシーンは、ばっちりと見ることができました。

 率直な印象は、政治家が紙に目を落とさずに、国民に向かって、自分の思いを直接語りかけるのは当然のことで、それさえ出来ない政治家が、いかに多いかということです。

 たとえば、選挙の際のテレビの政見放送でも、ほとんどの候補者は、カメラの前に置いた紙を誰かがめくりながら、それを読んでいるだけですが、この類で、紙ばかり読んでいる政治家を見ると、伝えたい思いがあるのだろうかと疑問を感じます。

 などというと、貴方は長い間テレビの仕事をしていて、慣れているからという人がいるでしょうが、これは、慣れで出来ることではありません。

 朝倉総理もそうでしょうが、自分の考えを伝えたいという思いがあるからこそ出来ることなのです。

 朝倉総理が、教科書を示しながら言われた「主権在民」は、まさにその通りで、どんなにへぼな政治も、また、どんなに国民の意思に反していると思われる政治も、主権者である国民が選んだ結果ですから、それを変えるには、選挙での一票を行使する以外にありません。

 早く、そんな主権在民が、もっと顕在化するような政治にしたいと思いながら、一つ感じたことがありました。

 それはマスコミの果たす役割で、このドラマの中では、どのように扱われていたかわからないのですが、多くの国民は、マスコミを通して初めて、政治の流れを知ることになります。

 ですから、朝倉総理のような立ち位置の政治家がいたとしても、旧態依然とした「政治部」感覚のマスコミの手にかかれば、朝倉さんの思いは、青臭くて現実的ではないと判断されて、正面からは取り上げられませんので、その存在が、国民の目に触れることはなくなります。

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お兄さんの仇を(7月13日)

 13日朝、東京のフジテレビで、報道2001という番組に出演しましたが、本番の後のお茶の席が、なかなか楽しいものでした。

 番組では、兄の3回忌にあわせて発表した、「大二郎の旗」を取り上げてくれたのですが、久しぶりに生番組に出ましたので、ほどよい緊張と集中を味わうことが出来ました。

 それを終えて、西部すすむさんや三宅久之さんら出演者の方々と、控室でコーヒーをすすりながらくつろいでいますと、いろんな話が飛び出します。

 中には、別の番組で、「車夫馬丁」という言葉を使おうと思ったら、名称は変わっていても、同じ仕事をしている人がいるから、そんな言葉を使ってはいけないと諌められたなど、気軽に口を出すと危ないような話も出てきます。

 そんなわけで、安心して話の輪に入れたのは、タバコの話題でした。

 というのも、この日の番組では最初のコーナーで、タバコの値上げに関するニュースが取り上げられていたからですが、生前チェリーをこよなく愛していた、愛煙家の兄のことも話に出てきました。

 聞けば、出演者の中では、西部さんがヘビースモーカーだとのことで、西部さんは、タバコを吸う人は吸わない人よりも認知症の発生率が低いと、自信ありげな話をされます。

 その根拠になるデータを知りませんので、そのことに直接のコメントは出来ませんでしたが、その話を聞いているうちに、兄が以前、「鄧小平がいつまでも元気で頭が冴えているのは、タバコを吸い続けているからだ」と言っていたのを思い出しましたので、その話を紹介しますと、西部さんは、喜んで聞いて下さいました。

 西部さんによると、兄のことを、応援していただいていたとのことで、エレベーターに乗る時には、「お兄さんの仇を取ってやって下さい」と、声をかけられたのですが、果たして仇は誰なのかは、聞きもらしてしまいました。

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議員からの働きかけ(7月12日)

 この日、教員の採用や異動をめぐる、大分県教育委員会の汚職事件の記事を見ていて、いかにもありそうな話だと思いました。

 というのも、自分が知事になった当時は、高知県でも、教員の採用にあたっては、教員の子どもなどコネのある人が有利だとの噂が、根強くあったからです。

 また、教育行政を担う機関で、数人の委員からなる教育委員会にも、その事務局にあたる組織にも、教員出身の実力者がいて、教育関係の事務に、大きな影響力を発揮している実態がありました。

 もちろん、だから不正が起きやすいといった、乱暴なことを言う気はありませんが、教員の世界は、師弟関係の強さや一人一人の視野の狭さなど、極めて独特な世界だけに、関係者だけで判断をしていれば、自分たちでは当たり前と思っていても、世間では非常識に映ることが起きても、決して不思議ではありませんでした。

 さらに、そうした実力者が、教育問題に熱心な議員と親しい関係にあると、不正とは関わりなくても、きな臭さは増します。

 知事になって間もない頃のことですが、ある議員から、この人を教育委員にと、かなり熱心に声をかけられたことがありました。

 その推薦の理由が、自分には納得のいくものではありませんでしたので、それは実現しませんでしたが、こうした推薦による関係づくりが、長く続けられていたであろうことは、容易に推察が出来ました。

 今回の大分の事件でも、県議会議員からの働きかけが問題視されていますが、高知県でも、教員の採用に限らず、県の職員の採用に関して、何とかならないかの類の話はいくつもあります。

 ただ、議員の中にはその程度の人がいると割り切れば、後は、それを受ける側がしっかりしていれば大丈夫なのですが、さらなる安全弁として、高知県では、働きかけの公表という制度を取り入れています。

 これは、県庁内で起きた不祥事をきっかけに取り組んだ、県政改革の一環で、県庁では平成15年9月から、教育委員会ではその年の12月から、職務に関する働きかけを公表するようにしました。

 その対象になるのは、議員や首長から一般の県民まで幅広いのですが、この制度の導入にあたっては、県議会議員や県庁のOBから強い反発の声が起きましたし、なぜか地元の新聞の論調も、あまり好意的ではありませんでした。

 議員やOBにとって、県の職員に働きかけをすることが、ご自分たちの存在感を示す上で、いかに重要な意味を持っていたのか、それも、公表されたら困るような働きかけをしてきたのかを、逆に証明するような出来事でした。

 ところが、当初は相当な件数が公表されたものの、年々その件数が落ちてきましたし、自分自身も、のどもと過ぎればの、安易に流れる傾向を自認しましたので、去年の退任を前に、公表の基準を大幅に緩めるよう提案しましたが、任期切れによって実現は出来ませんでした。

 今後も、各種の不正を防ぐための安全弁として、働きかけの公表は大きな力を発揮すると思いますが、採用試験に話を戻せば、どんなシステムをつくっても、採点にあたる人が不正をしたのでは、いかんともしがたい面があります。

 それだけに、システムの作り変えは当然のこととして、上に立つ者の毅然とした姿勢が、それ以上に大切かと感じました。

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2008/07/14

懲りない人たち(7月11日)

 11日朝刊に、諫早湾の干拓事業をめぐる裁判で、農水省が佐賀地裁の判決を不服として、控訴を決めたことが報じられていましたが、中央の官僚は、どこまで感覚が麻痺しているのかと呆れてしまいました。

 諫早湾の漁民の方々が訴えている内容や、それに対する佐賀地方裁判所の判決の内容は、ここでは省きますが、この事業には、愚かな公共事業の要素が、凝縮しているように思えます。

 その一つは、一度始めたら、どうしても止めたくないという愚かさで、この事業の場合、当初は、湾全体を閉め切って、1万ヘクタール以上の水田を造る計画でした。

 しかし、自らが減反を推し進めた手前、水田にはこだわれませんので、事業を続けるためにと、その後事業の目的を、水源の確保や畑づくりに変えました。

 その計画をさらに縮小した上、主な目的を防災に切り替えて事業を着工したのが、平成の初めのことですが、その経過を見ただけでも、公共事業全体を否定する人に、「公共事業は一度始まったら決して止まらない」という批判の口実を、あえて与えているとしか思えない愚かさです。


 その上、国民の中で、環境問題への関心が年々高まっていることを考えれば、平成9年に水門で湾を閉め切った時に、俗にギロチンと称された工法をとったことは、これまた愚かなことでした。

 この時、国土交通省の幹部は、「うちなら、国民がこぞって反感を覚えるような工法は取らない」と、冷笑していましたが、井の中の蛙の権化のような人たちには、そんな声も届かなかったのでしょう。

 もう一つの愚かさは、費用対効果のアンバランスの愚かさで、事業費の総額は、当初の見込みが1350億だったのに対して、結局は、2倍近い2533億にふくれ上がっていました。

 これに対して、営農している農家の方は、41戸と言いますから、こんな愚かなことを続けていたら、日本の農業に、将来があろうはずがありません。

 訴訟では、さらに控訴して争うとのことですから、こうして時間稼ぎをしている間にも、担当の官僚は次々と退官をして、最後には、誰も責任を取らないままに終わることが目に見えています。

 良識のある人なら誰もが、「あまりにひどすぎませんか」と、言いたくなります。

 実は、農業関係の土木事業をめぐっては、高知県内でも、疑問を感じた事業が多々ありました。

 それは例えば、農業用のダムを作ったものの、手順の不備で利用できないとか、大規模な地滑り対策で、100億円単位の予算が見込まれるのに、利益を受ける農家はごくわずかといった資料を、こともなげに説明するといったケースです。

 後者に関しては、事業の対象になる斜面の下の、ダムに貯まった水が地下水面を押し上げて、地すべりの危険を増しているとしか思えないため、それを尋ねてみました。

 すると、「国土交通省は、そのことを認めようとしないので、それを事業の理由にすることが出来ない。ただ、もし大量の地滑りが起きて、ダムが土砂で埋まったら、防災上も大変な事態になるし、復旧のための経費も莫大になるので、事業はやらざるを得ない。そこで、自分たちの管轄である農業の分野で、数軒の農家を守るためという理屈を作った」という、答えが返ってきました。

 結局は、この事業に着手するよう、国にお願いをする手続きをとりましたが、国と地方の力関係や、縦割り行政の矛盾、さらには、農業土木の狭い視野など、実に多くの問題をはらんだ事例でした。

 たぶん、諫早湾の干拓事業にも、環境のことだけではない、もっと多方面の問題が、潜んでいることと推察をします。

 私は、公共事業は、これまでもこれからも、行政が担う仕事として、とても大切だと思いますが、それだけに、公共事業全体を否定されかねないような愚かさを、漫然と繰り返す官僚の鈍感さには、ただただ呆れるばかりです。

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良い連鎖をふやすために(7月10日)

 10日午後、事務所を訪ねて下さった、県内の児童施設の先生方から、施設で過ごす子供たちの話を聞きました。

 この児童施設には、かつては、親に見放された子も数多くいましたが、今では虐待を受けた児童がほとんどで、親とまったく連絡が取れない子は、ほとんどいないと言います。

 とはいえ、自分の子を、どうかまったら良いかわからない親が一杯いますので、家に一時帰宅をしても、お昼はパンを買い与えるだけ、服の着替えもさせないままといったケースがしばしばです。

 また、よく言われることですが、親から虐待を受けた子は、次の世代に虐待の連鎖を起こします。

 ある時、自分の言うことを聞かないといって、小さい子を叩く少年に、「そんなことしちゃ駄目でしょ」と叱ると、彼は、「これしか教わってないから」と答えたそうです。

 そこで、その意味を尋ねてみると、返ってきた答えは、「小さい頃から、言うことを聞かない時には、叩くことしか教えられていなかったから」でした。

 この返事を聞いた先生方は、虐待の連鎖を、あらためて実感させられたそうです。

 同じく辛い話ですが、虐待を受けた子の中には、もしかして、自分が悪い子だったから叩かれたんじゃないか、でも今は良い子になっているから、家に帰っても大丈夫と考える子もいて、先生方は、その健気さに打たれると言います。

 ただ、辛く切ない話題ばかりではなく、未来に期待がもてる話もいくつもあります。

 その一つは、短大で保育士の資格を取った後、この施設に務めた卒園生の話で、自らの経験を活かして、子供たちの面倒を見てくれました。

 また、調理師学校で学んだ後、パティシエとして務めていたホテルで、彼氏とめぐりあった女性は、めでたく結婚式を挙げました。

 こんな先輩たちを模範に、どうせと無気力になりがちな子供たちにも、やりたいことがあるなら努力してみたらと、伝えられるようにもなりました。

 8月末には、関係する4つの園をあげての催しが、予定されているとのことですので、お誘いを受けて、参加させてもらうことにしました。 

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怖い噂(7月9日)

 9日昼、山形県の寒河江市で、昨夜の会でお世話になった方々と、山菜料理を楽しみましたが、その席で耳にした話の中に、そんなことがあったのかと驚いたことがありました。

 それは、6月14日に、東北地方で起きた地震に関する話で、あの地震の少し前から、山形に大きな地震が起きるという噂が、出回っていたというのです。

 このため、地元の山形新聞は、地震の3日前の6月11日の朝刊に、「県内大地震うわさ拡大」という見出しの記事を載せて、県民に冷静な対応を呼び掛けていたのだそうです。

 その話を聞いて、そんなことがあったのかと思うと同時に、ちょっと興味がわきましたので、後で、インターネットで調べてみました。

 すると、中高生と思われる子供たちの、ネット上のやり取りの中に、5月29日頃から、6月に山形に震度7の地震がくるっていうけど本当だろうか、といった書き込みが出てきます。

 そのうち、「なんか阪神大震災も当てたっぽい」とか、「阪神大震災も予言してたンですか?ゃばいッすねえー%」などと噂は広がって、やがて、それを予言したというブラジル人の名前も登場します。

 かと思えば、「その予言者のホームページには、何も書いてなかったけど」など、噂を否定する声もあって、6月11日に山形新聞の記事が出た後は、「デマですって言ってたねぇ」と一旦は沈静化に向かうのですが、その3日後に地震が起きました。

 このため、掲示板の中では、さらに大きな地震が起きそうだと、新たな噂も飛びかうのですが、最後は、「地震のデマ流した人捕まったみたいです」という、これまたデマで話が終わっていました。

 イタリアでの落書き騒ぎもそうでしたが、この地震をめぐる噂話の流れ方を見ても、何事もネット情報抜きには語れない時代であることを、あらためて感じさせられました。

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山形に来ました(7月8日)

 8日は、仕事で山形に来ましたが、紅花や硫黄の温泉など、高知では、日頃触れることのできない文化の香りを、かぐことができました。

 周辺を、サクランボの畑に囲まれた、山形空港に降り立つと、迎えて下さった方が、これから老舗の酒蔵を見に行くと言われます。

 お酒がほとんど飲めない私は、いきなりお酒の試飲だろうかと緊張しましたが、着いてみるとそれは杞憂で、先代が集めた、朝鮮の李朝を中心とした器の数々が、旧家をいかした美術館に飾られていました。

 先代は、東京で過ごした学生時代に、本を買うと言って親に送ってもらった仕送りを使って、骨董屋をめぐったという筋金入りで、当時はまだ、李朝の品々がブームになっていなかったため、数多くの名品を集めることができたのだと言います。

 それだけでなく、別館の蔵には、瞽女(ごぜ)シリーズで知られる画家の作品が展示されていて、地方の名士が地域の文化に果たす、役割の大きさが感じられました。

 この後、今が盛りの紅花の畑を通りましたが、アザミに似た紅黄色の花が、染料や紅の原料となって、北前船で大阪に運ばれたと聞きますと、地元の材料を活かした物づくりや、地域と地域を結ぶ貿易の道に、文化と浪漫のイメージが広がります。

 地域を結ぶと言えば、夕方からのシンポジウムでご一緒した、山形県の知事さんからは、東京の大田市場に出かけた時、宮崎の完熟マンゴを見て思いついたという、マンゴとサクランボの、豪華詰め合わせの話を聞きました。

 一箱5万2千円で販売したところ、500箱が売れたとのことですが、宮崎と山形を結びつけるストーリーとして、米沢藩主だった上杉鷹山が、宮崎の高鍋藩主の次男だったことを話すと、「なるほど」とうなずいてくれる人が多いとのことで、ここでも、浪漫やストーリーの大切さを感じました。

 夜の宿泊先は、学生時代以来、何十年振りかの蔵王温泉でしたが、深夜の露天風呂はまた格別で、硫黄の香りが懐かしさを誘いました。


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七夕の思い出(7月7日)

 今日は七夕でしたが、NHKの記者時代の思い出話の中に、七夕にかかわる話題が一つありました。

 この話は、本に書いたこともありますので、ネタとしては、二番煎じか三番煎じになるのですが、宮内庁担当の記者として、東宮侍従長のお宅を夜回りした時のことです。

 ちょうど七夕の季節で、浩宮さま(現在の皇太子)が、笹の葉に吊るした短冊に書かれた言葉を、東宮侍従長が紹介してくれました。

 それは、「ふるえたて」という言葉でしたが、この言葉は実は、ある懸詞(かけことば)になっていたのです。

 というのも、この時東宮侍従長は、病気で療養をされた直後で、その後遺症のため、手に震えが残っていたからでした。

 つまり浩宮さまは、「震えた手」と、それに負けずに「奮い立て」という励ましの思いをかけて、「ふるえたて」と書かれたわけですが、東宮侍従長の家を出た後、ネタ帳に書き留めたことを覚えています。

 それから四半世紀余りがたって、その頃、浩宮さまの警護を担当していた方が、巡り巡って現在は、東宮侍従長を務められていますが、今や、皇太子ご一家をめぐる世間の話題は、「ふるえたて」のような、ほのぼのとしたものではなくなってしまっています。

 今は、それ以上、とやかく言う立場にはありませんが、牽牛と織女が、年に一度出会うと言われるこの夜に、昔話を思い出していました。

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少し寂しかった(7月6日)

 6日朝の新聞で、長年お世話になった女医さんが、亡くなったことを知りましたので、お昼過ぎから、県西部の須崎市で開かれた、告別式に参列しました。

 この方は、名古屋のお生まれで、戦前、東京の女子医専(現在の東京女子医大)を卒業した後、師を慕って、高知県の須崎市で開業されました。

 それ以来、80歳を超えるまで、現役の医師として活躍されましたが、いつも帽子を身につけたおしゃれな方で、発明家や切手のコレクターなど、多彩な顔も持っていました。

 発明品の一つは、拡大鏡を首からぶら下げる、「ルーペンダント」なるもので、その特許権を高知県の女医会に譲られるなど、ユニークな活動をされていました。

 私とのご縁は、17年前に、高知県の知事選挙に出るため、高知に移り住んだ時からのことですが、自民党と、それに連なる県内のほぼすべての団体の支援を受けた、相手候補を前に、表に出て応援して下さる方が少なかった中で、須崎市での後援会長を引き受けて下さいました。

 それ以来、特段のおつき合いがあったわけではありませんが、時折お会いして、歯切れのいい、元気なお話を伺ったものでした。

 そんな方でしたので、この日の参列者が少なかったことを、寂しく感じたのですが、この方が91歳、先月亡くなった、佐川町の保育園長さん(5月5日のこのブログで、「立夏の蠅」という題で紹介しました)が93歳、天寿とはいえ、長年お世話になった方々が逝かれるのは、もっと寂しいことです。

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misonoの涙(7月5日)

 5日は、以前このブログでも紹介をした、アメリカ人監督による映画「はりまや橋」の、県内での撮影の最終日でしたので、その様子を見学に出かけた後、夜の打ち上げの会に出席しました。

 この日午後、県内の佐川町の民家を借りた撮影が、県内でのクランクアップと聞きましたので、ご案内を受けて、現地に見学に出かけました。

 その家のご当主によると、ある日の夕方、奥さまが一人で留守番をしていた時に、アメリカ人監督のアロンさんが、突然訪ねてきて、撮影に使わせてほしいと申し出たのだそうです。

 家には狩猟用の銃が置いてあるため、最初は、他人を家に入れてはいかんと、即座にロケを断ったというご主人ですが、お家の前で行われた、ガーデンパーティーの場面の撮影には、エキストラとして、楽しそうに参加されていました。

 日本側の出演者は、女性が中心ですが、高岡早紀さん、紺野美沙さん、柏木由紀子さん、misonoさんといった結構な顔ぶれで、それぞれに、画面を通すのとは違った印象があります。

 たとえば、高岡さんには、魔性の女といったニックネームもありますが、その言葉から想像されるような匂いは、少なくとも初対面の身には感じ取れませんでした。

 もちろん、マン・ツー・マンともなれば、違った魅力を発揮されるのでしょうが・・・

 この後の、夜の打ち上げの会では、出演者が一人一人壇上に立って挨拶をしましたが、その中でも特に元気が良かったのは、「イェーイ」の掛け声から始まった、misonoさんのスピーチでした。

 いいなあと思ったのはそこからで、「みんなありがとう」と、元気に声を張り上げているうちに、感情が高ぶったのか、最後は、目もとを指でぬぐいながらのご挨拶になりました。

 バラエティーで、おバカさんの一員を演じている彼女とは、一味違った素敵な感じでしたが、彼女を起用したプロデューサーによると、あれほどピュアーな子はいないとのことで、テレビではお目にかかれない、そんな光景を見ただけでも、ちょっと得をしたような気がしました。

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常磐線よお前もか(7月4日)

 この日、福島県のいわき市に出かける用があったため、上野駅から常磐線に乗りましたが、ホームを間違えたため、危うく乗り遅れるところでした。

 乗車予定の特急「スーパーひたち」の、上野発の時刻が9時だったため、時間の余裕をみて、東京の家を8時前に出ると、渋谷から上野へと向かいました。

 まず最初に迷ったのは、山手線の品川から東京向きに乗るか、それとも新宿から池袋向きに乗るかでしたが、案内板を見ると、新宿・池袋・上野方面とあったため、そちらに乗ることにしました。

 ところが、車内にある路線図を見ますと、どちらから回ってもほぼ同じくらいの駅の数でしたので、その路線図に出ていた、駅と駅の間の所要時間を足して、実際にどちらが近いのかを、計算してみようと思いましたが、暗算にくたびれて、途中でギブアップしてしまいました。

 そうこうするうち、9時15分余り前に上野に着きましたので、これなら悠々間に合うと思って、ホームの階段を上がると、あらためて、常磐線と書かれたホームに降りました。

 ところが、出発の案内は普通や快速ばかりで、どこか雰囲気が違います。

 そう言えば、新宿駅でも、特急の「スーパーあずさ」が出るホームは、通常の中央線のホームとは別の場所だったことを思い出して、駅員さんに聞こうと思ったのですが、それらしい人が誰一人見当たりません。

 仕方なく、あわててもう一度階段を駆け上がると、新幹線と特急のホームはこちらという、案内が出ているではありませんか。

 時計に目をやると、出発まで10分を切っていましたので、足早に通路を駆け抜けますと、懐かしい、昔の上野駅の改札ロビーに出ました。

 そこから見渡すと、一番左側の10番線に、「スーパーひたち」がいましたので、息を切らしながら改札を抜けました。

 先ほど例に挙げた、「スーパーあずさ」の時には、出発ぎりぎりにホームにたどり着きましたので、それに比べれば、今日は5分程の余裕がありましたが、常磐線よお前もかとの思いで、無事車両に乗り込みました。

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外国人が驚く日本人(7月3日)

 3日の朝刊に、あの落書き事件に対する日本側の反応をめぐる、イタリア発の記事が出ていましたが、それを見ていて、ある本に出ていた、古き良き日本人のエピソードを思い出しました。

 世界遺産でもある、イタリアはフィレンツェの、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に、日本の短大生や大学生らが落書きをしていたという出来事は、日本では、日本人の公徳心が問われると、大きな話題になりましたが、この日の全国紙の朝刊に、その後日談に対する、大聖堂の修繕責任者のコメントが出ていました。

 それによると、この落書きが社会問題になってしばらくした後、同じ日本人として恥ずかしいとか、申し訳ないといった趣旨のメールなどが、日本から、次々と届いたというのです。

 こうした反応に驚いた大聖堂の修繕責任者が、「日本人の態度に敬服した」と述べたというのが、この記事のあらすじでした。
 
 確かに、ヨーロッパに行きますと、日本の暴走族も顔負けの、スプレーで書いた落書きが、街のいたるところで目につくような都市もありますし、そもそも欧米では、文化財への落書きに、日本人ほど敏感には反応しないと言われますので、「敬服した」という彼の受けとめも、あながち不思議ではありません。

 このように、この問題は、公共的な建造物への落書きに対する、国による考え方の違いのほか、ネット社会を通しての犯人捜しや、吊るし上げのターゲットづくりなど、社会を考える、様々な切り口を提供してくれましたが、他人のやったことを、恥ずかしい申し訳ないと詫びる日本人の感性に触れて、一つ思い出したことがありました。

 それは、「日本絶賛語録」という本に載っていたエピソードの一つで、大正5年に来日して、全国各地でその技を披露した、アメリカの曲芸飛行家の日記の中に出てきます。

 東京の青山で、最初の曲芸飛行を演じた翌日、このアメリカ人飛行家は、1円紙幣を同封した手紙を受けとります。

 手紙を読むと、その人は、自分の家の屋根から曲芸飛行を見た人で、入場料を払わずに見物してしまって申し訳なかったと、1円を送ってきたことがわかりました。

 母国アメリカでは、誰一人、場外で無料で見物したからといって、後で入場料を払おうとした人はいなかったため、何と正直な国民かと驚き、尊敬をしたと、彼は日記に書き記していたのです。

 そのエピソードを思い起こしながら、今回の落書きに対する日本人の反応も、そんな日本人の良さが残っていた証だろうかと、くつろいだ気がしました。

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2008/07/03

こんなところでも(7月2日)

 2日は、高知に戻るまでの間、東京で用を済ませましたが、その途中で、こんなところでもと感じたことがありました。

 昨日の記者会見を終わって、いささかくたびれもしましたので、この日は、仕事らしい仕事はいれていませんでしたが、届け物がありましたので、昼過ぎに銀座に出かけました。

 その帰り道、近くにあるホテルに立ち寄ったのですが、別館のファッションビルをのぞいた時に、こんなところでもと感じることがあったのです。

 それは、こんなところでも、扉の閉まったお店が結構あるということで、ウィークデイとはいえ、フロア全体も静かなものでした。

 シャッター街といえば、地方の商店街の代名詞のようになっていますが、大都会のど真ん中でも、同じような現象が起きているのを見ると、なかなか根の深い問題だなと、つくづく感じます。

 誰しも、景気はどうですかと問われれば、良くないと答えるものですが、それにしても、東京でタクシーに乗った時、景気はまずまずという運転手は、一人としていない状況ですので、東京がこれではと、いささか暗い思いになりました。

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立ち上げました(7月1日)

 6月はブログをお休みして、ホームページや政策づくりの準備をしてきましたが、兄龍太郎の3回忌にあたる1日午後、政策の基本理念をまとめた「大二郎の旗」と、最近の活動もいれたホームページを、それぞれ立ち上げることが出来ました。

 おととし7月に亡くなった、兄の葬儀の席でのことでしたが、武道館の会場に掲げられた兄の写真を見ているうちに、兄が、「俺の落し物を拾ってくれ」と語りかけてきたように感じました。

 それが、国政への転身を後押しする、一つのきっかけになったのですが、それ以来、兄の落し物は何だったろうかと考えてきました。

 あわせて、国政を目指す以上は、単に、一議員として議席を得ただけではこと足りませんので、外交・防衛から内政までを見通した、自分が目指す、国のあるべき形と政策の基本理念を、自らの旗として立てようと考えたのですが、いつ衆議院が解散されるかわからない状況では、締め切りがない原稿と同じで、一気にまとめようという気力がわいてきません。

 そこで、兄の3回忌にあたる7月1日を、自らに課した締め切りと心に決めて、5月の半ば頃から頭の整理を始めました。

 と同時に、知事時代に開いていたホームページも、早く再開したいと思ったのですが、全体の構成も原稿も、作り直しを必要とする部分がかなりあって、なかなか思うにまかせません。

 そんなわけで、6月はブログを休んで、政策づくりとホームページへの書き加えに没頭しましたが、このうち、目指すべき国の形と政策の基本理念は、二晩続けて、未明までパソコンと向き合った結果、一気に流れをまとめることが出来ました。

 その後さらに手直しを重ねて、「大二郎の旗」の第一章にあたる冊子が出来あがってきたのは、先月28日の午後のことでした。

 これとあわせて、ホームページのつくり変えを進めていましたが、こちらは、制作を引き受けて下さっている方が、6月の末に、沖縄の久米島に息抜きに出かけられたため、携帯とメールを通じて、最後の詰めをお願いしました。

 その甲斐あって、6月30日には、ホームページのリニューアル版も、立ち上げ可能になりました。

 その30日の夜、昨年から取材を続けていたTBSが、ニュース23の中で、「大二郎の旗」の立ち上げを報道しましたので、予定通り、兄の3回忌に当たる1日の午後、東京で、「大二郎の旗」の立ち上げに関する記者会見をしました。

 記者の皆さんが、真剣に耳を傾けてくれたのも嬉しいことでしたが、その中の一人が会見後に、「原稿や書きものを見ないで、自分の考えを自分の言葉で語りかける様子が、今の政治の中ではとても新鮮に感じられた」と言ってくれたことが、緊張していた心をほぐしてくれました。

 この会見と同じ時刻に、ホームページもアップしました(http://daichanzeyo.la.coocan.jp)ので、是非一度、のぞいて見て下さい。

 その中にも、コーナーを設けていますが、応援して下さる方には、「チーム大二郎」の一員になっていただくと、さらに元気が出ます。

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