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2009年2月

2009/02/26

仕上げはお茶漬けの素(2月21日)

 21日夜、夕食を共にした県内の企業の幹部から、昨年、ヒマラヤ山系の山に登頂した、高知県の登山隊とお茶漬けの素との、意外な関係を聞きました。

 この登山隊は、チベットとネパールとの境にある、ラトナチュリという7千メートル級の高峰に挑んだ、高知県山岳連盟の登山隊で、9人のメンバーの平均年齢が64歳という、高齢隊員によるヒマラヤ挑戦として、話題になりました。

 とはいえ、少ない資金の下での挑戦で、高山病に備えての酸素ボンベも、最低限の非常用のものしか用意できませんでしたから、少し上ってはまた下りて、少しずつ体を高所にならしていくという、行きつ戻りつの時間のかかる登山でした。

 見事登頂に成功したのは、昨年の10月初めのことでしたが、この登山隊を食料面で支援したのが、この夜夕食をともにした方が幹部を務める、県内の食品卸の大手企業でした。

 聞けば、この企業では、食料を一日分ずつ小分けにして、現地のベースキャンプに送ったのですが、これを9人の隊員の手もとに運びあげるのに、47頭のロバと100人を超える人が活躍したといいます。

 最後に頂上をきわめたのは、63歳と60歳の2人の隊員でした。

 その登頂の日、朝3時に起きて、4時半に出発するまでの間に、隊員が最後に口にしたのは、雪解け水を温めて作った、お茶漬けの素だったそうです。

 食料支援のお礼の印にと、頂上に立った隊員は、この企業の系列会社で作っている、清酒の名の入った旗を、山頂に立ててくれたとのことですが、お茶漬けの素と清酒とヒマラヤの組み合わせが、なんとも不思議な味わいを醸し出すお話でした。

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危機管理の教訓(2月17日)

 17日夜、テレビのニュースで、中川財務大臣の、辞任に至るまでの経過を見ていて、危機管理の大切さを、自らの戒めとして感じました。

 この辞任劇のもとになった記者会見は、新聞だけではおかしさが伝わらない、テレビ時代ならではの見世物でしたが、酒を飲んだあげくの醜態か、それとも、本人が言う通り薬を飲み過ぎたのかは、どちらでもいいことで、いずれにしても、大切な場で自らを律することのできない、政治家としての資質が問われた出来事でした。

 ですから、自分が関心を持ったのは、飲み過ぎたのが酒か薬かではなく、その場にいたマスコミや役所の担当者が、何を考えてどう反応したかでした。

 多分、その場にいた記者の多くは、記者クラブ所属の記者だったでしょうから、日ごろから、大臣や官僚との間に、慣れ合いの意識が強かったのではと予想されます。

 情報を取るために、相手の懐に入ることは、記者として欠かせない技ですが、そのまま、一蓮托生の慣れ合いに陥って、少々のことには目をつぶる、といった意識になったのでは話になりません。

 一方、問題の記者会見に、並んで座っていたお二人をはじめ、外務省や財務省、それに日銀の担当者は、あのような大臣の様子を見ながら、何を考えていたのでしょうか。

 あの大臣なら仕様がない、そのまま放っておこうとでも、考えたのではないでしょうか。

 もしそうならば、国家としての危機管理意識の薄さに、呆れはててしまいます。

 こんな国ではいけない、という思いを強くすると同時に、自分自身も、危機管理への意識を、もっと高めなくてはと自戒しました。

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マラソンへの憧憬(2月14日)

 14日午後、東京のホテルで開かれた、日本陸連名誉副会長の、帖佐寛章さんの出版記念パーティーに出席して、帖佐さんの、マラソンにかける情熱をうかがいました。

 帖佐さんは、高知県で国体が開催された当時、日本体育協会の国対委員長をされていたため、国体の簡素化を求める県側の代表として、何度も渡りあった仲でしたが、結果的には、国体の成功に向けて、大変お世話になりました。

 そんなご縁で、帖佐さんが、聞き書きの形で著された「マラソンへの憧憬」という本の、出版を記念する会にお招きを受けました。

 たまたま、別の用で東京に行っていましたので、パーティーに顔を出しますと、日本陸連の会長である河野衆議院議長などの名士をはじめ、スポーツやマスコミの関係者が多数出席されていました。

 その席で、お礼の挨拶に立った帖佐さんは、マラソンへの思いを込めて話を始められたのですが、帖佐節の異名の通り、単なる挨拶の域を超えた、ミニ講演と呼ぶにふさわしい内容でした。

 最初は、女子マラソンの思い出話で、30年余り前に、全国女子マラソンの企画を、陸連の幹部の会に諮った時には、女性にマラソンとはけしからんと、即刻却下されたといいます。

 その壁を乗り越えて、1979年に大会の開催にこぎつけたものの、第1回は6位まで、第2回は12位までを外国選手に独占される状態で、そのままでは、女子マラソンを存続できないのではないかと、危ぶまれたほどでした。

 その危機を救ったのが、1983年から、京都で開催されるようになった女子駅伝で、ここで蓄積された力が、バルセロナ・オリンピックでの、有森の銀メダルから、シドニー、アテネでの、高橋と野口の金メダルにつながりました。

 一方、男子のマラソンは、ニュージーランドがマラソン全盛の時代に、君原、寺沢、円谷といった当時の第一線の選手を、現地に送り込んだ時期には、成果が出ましたが、現状の見通しは厳しいというのが、帖佐さんのご意見でした。
 
 その理由は、箱根駅伝があまりにも脚光を浴びているため、高校も大学も、箱根に出ることが目的になってしまって、そこに出ている金の卵を育てようという意識が、弱くなっているからだと言われます。

 このため、日本陸連の専務理事として、後任にあたる沢木啓祐さんには、箱根に集まる金の卵を磨きあげる、システムを作ってくれと頼んでいると、話を結ばれていました。

 すでに、後期高齢者の仲間入りをされているとは思えない情熱で、こうした強い思いが、高橋や野口の活躍を生んできたのだと、つくづく感心しました。

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2009/02/19

自動車の将来(2月13日)

 13日は東京で、夕方は企画関係の会社の方と、また夜は、官界とも関わりの深い、経済界の方と懇談をしましたが、どちらでも、自動車業界の将来が話題になっていました。

 夕方お会いした企画会社の方は、まず、午後6時台のテレビの視聴率が、どの局も軒並み2けた台に上がったことを例にあげて、早い時間に家に帰る、巣ごもり族がふえたことが、今後の消費の動向に、どう影響するだろうかと、思案していました。

 その延長線上で、そもそも、これまでの経済を引っ張ってきた自動車が、今後も商品としての価値を持ち続けるかどうかと、疑問を投げかけていました。

 携帯もかけられない、アイポッドも使えないといった不便な乗り物を、これからの時代の若者が、求めるとは思えないというのです。

 一方、夜の会合では、内部留保にもゆとりがあると思われるトヨタが、なぜ、生産ラインの一部ストップや雇用の削減など、オーバーアクションとも受け取れる対応を取ったかが、話題になりました。

 その中のお一人は、トヨタが、アメリカのビッグスリーの一角を吸収しようものなら、アメリカ国内で、大変なトヨタバッシングが起きるし、そのまま、経営の健在ぶりを示していれば、ビッグスリーと合弁をしろ、金を出せとの圧力が強まるから、早めにアクションをしたのだろうと予測します。

 さらに、トヨタが言い出せば、他の輸出関連のメーカーも、それならうちもと、後に続きやすくなるし、トヨタにしてみれば、早めに手を打って、2~3年で立ち直れば、社長になったばかりの、創業者一族の株も上げられると解説していました。

 なるほどと思いながら話を聞いていましたが、それにしても、どこに行っても話題になる、自動車業界もトヨタも、やはり大した存在だと再認識しました。

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嬉しかったこと(2月12日)

 12日午後、自分が知事時代に手がけた、県庁の業務のアウトソーシングに関連して、ちょっとうれしい話を聞きました。

 それは、3年間にわたるアウトソーシングの、総括にあたって行われたアンケートにかかわることで、提供されるサービスの質に変化があったか、地域の雇用などにつながったか、また、職員の仕事に変化があったかなどを尋ねています。

 アウトソーシングに反対の立場の人からは、サービスの主体が役所から民間に移ると、品質が悪くなるのではないかと言われていましたが、担当の職員の受けとめを見る限りでは、ほとんどが、サービスの質が向上したと答えています。

 具体的には、給食のメニューが多彩になったとか、パスポートの窓口で、写真が撮れるようになった、さらには、研修の内容が充実したなどの例があげられています。

 また、雇用や就労の場を創り出すという目標に関しては、県内の106の事業所で、221人分の雇用が生まれていますし、この中で、正社員も新たに、62人が採用されています。

 逆に、県の職員を中心に見れば、240人の職員が担当していた仕事が、221人になっていますので、その分がスリム化されて、新しい行政のニーズに対応できたことになります。

 さらに、県庁の仕事が変わったかという質問に対して、およそ7割の職員が、仕事の仕方が変わったと答えてくれていました。

 アウトソーシングに取り組み始めた当初、県庁の中では、財政が厳しくなったことを背景にした、人減らしが狙いだろうという狭いものの見方が、大勢を占めていた感がありましたので、多くの職員が、何かが変わったと受けとめてくれたことは、自分にとっては、とても嬉しいことでした。

 振り返ってみれば、江戸時代から明治の開国への移行とともに、近代化の名のもと、それまでは、地域の住民が力を出しあって取り組んでいた仕事を、ことごとく行政まかせに、つまりは、行政にアウトソーシングしてきた歴史があります。

 そう考えれば、行政から地域へのアウトソーシングは、行政の仕事の放棄ではなく、地域社会が本来持っている力の復元ですから、今後は地方だけでなく、国においても、本格的に取り組まれることは間違いありません。

 そんな、歴史的な流れが実感できる結果を見て、ちょっと嬉しい気持になりました。

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有機野菜を囲んで(2月10日)

 10日夜、自分が参加している、メーリングリストの仲間の会で、有機野菜を使った料理に舌鼓を打ちました。

 このメーリングリストには、県外もふくめて、様々な活動をしている人が参加していますが、この夜、市内のお店に集った10人の顔ぶれも、町内会長さん、ネイチャーゲームの指導者、市民活動家の女性、さらには公務員など多彩でした。

 その中で、この日の主役は、土佐町という中山間地域の町で、有機での野菜づくりに取り組んでいる青年です。

 この方は、岡山県の出身で、学校を出た後5年間、伊勢神宮で神官の修行をしていたという経歴の持ち主ですが、思い立って高知に移り住んで、有機農業に挑戦しています。

 この夜は、その彼が作った野菜を、会場になったお店のシェフが調理するという趣向で、そのためにシェフは、彼の畑まで出かけて現場を見てくるという、熱の入れ方でした。

 出てきたお料理は、和風、フレンチ、イタリアンと色とりどりで、おなかが一杯になりましたが、お味の方も格別でした。

 お料理を囲んでの会話も、もちろん、格別の楽しさでしたが、こうした楽しみが持てるのも、地方の特権ではないでしょうか。

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漢字一文字(2月7日)

 7日午後、高知市内で開かれた、地域の課題を語り合う会で、この日の講師を務めた方から、漢字を使った、面白い座のなごまし方を教わりました。

 この日の講師は、各種のNPOの支援をしている方で、いわゆるNPO法が制定されてから、10年たったことを受けて、今、NPOに期待される役割は何かなどがテーマでした。

 その話の冒頭、座をなごますとともに、参加者に関心を持って話を聞いてもらうためにと、この方が使った手法が勉強になりました。

 それは、毎年暮れに、京都の清水寺の管長が、その年の世相を漢字一文字で書きあらわすことを、話のきっかけづくり使うという手法でした。

 具体的には、「変」はなぜ、去年の一文字に選ばれたのかに始まって、おととしの「偽」、さきおととしの「命」へと、5年ほどさかのぼっていきます。

 これによって、聞き手の側にも、参加意識が出てきたところで、「では、高知県の現状を漢字一文字で表すと」と持ちかけるのです。

 すると、中途半端の「半」や迷走の「迷」、さらには、「底」や「眠」など、やや否定的なものから、森林率が日本一の「森」や挑戦の「挑」など、前向きのものまで、色々な回答が出て、一気に座の雰囲気がやわらぎました。

 このため、その後の本題で、行政は規則にあうかどうかを、また、企業は利益が上がるかどうかを、基準にするのに対して、NPOは、自らの使命にあうかどうかを、判断の基準にするといった解説を聞いても、すんなりと頭に入ってきました。

 言い方をかえれば、行政の求める公平性と企業が求める利潤との、隙間を埋めるのがNPOの活動ということになりますが、行政や企業とは違って、NPOでは、まったく異なる部署への異動がないため、その使命が好きであれば、いつまでもやり続けられるという指摘も、うなづいて聞いていました。

 といったわけで、あまり聴衆が多いときには駄目ですが、限られた人を相手に話をする時には、「漢字一文字で」という投げかけは、様々な利用方法がありそうだと思いました。

 ただ、こうして漢字一文字の活用の場を、広げている人がふえているために、検定協会の儲けが、ふえ続けるのかもしれません。

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2009/02/16

ご無沙汰しました(12月中旬~2009年2月)

 あまりにも解散が遠のいたため、この機会に、本を書いてみようと思い立ったのに加えて、年末からは、2週間ほど県外に出かけたこともあって、何の予告もしまいまま、長期にわたって、ブログを休んでしまいました。

 長いことブログが更新されていないため、何人かの方から、どうかしたのかとか、野暮用にかまけているのではないかなど、ご心配の声をいただきました。

 そんな声からも、私のブログを読んで下さっている方が、結構おられることがわかって、嬉しくも思いました。

 実を言えば、12月9日に、絵金婆ちゃんが亡くなったとの話題を書いた後も、年末にかけて、ブログのネタはいくつかあったのですが、人に勧められたこともあって、選挙までの期間を利用して、少しずつ本を書き始めました。

 その内容は、なぜ国政を目指すのか、また、国政の場で何がしたいのかなど、多岐にわたっていますが、2009年の新年を迎えてからは、本格的にキーボードを打ち続けていましたので、ブログを書き込む暇もないまま、どんどん時間がたちました。

 そんなわけで、すでに2月も中旬に入ってしまいましたが、このまま休刊を続けていますと、復帰のチャンスを失ってしまいますので、12月から1月にかけての見聞も思い起こしながら、まずは年末年始の穴埋めをしておきます。

 暮れの23日には、東京で、野宿暮らしの人などの支援活動をしている、NPOの事務局を訪ねました。

 このNPOの代表は、昨年末に、東京の日比谷公園に開設されて話題になった、年越し派遣村で村長を務めた方ですが、事務所に使われている2階建ての家を訪ねると、どの部屋も、相談に訪れた人や対応するスタッフで満員です。

 話をうかがっているうちにも、次々と相談が寄せられる忙しさでしたが、事務局長さんが開口一番に語ってくれた話は、なかなか印象的なものでした。

 それは、欧米で野宿生活者の支援をしているボランティアの人たちが、日本の現状を視察すると、みな一様に驚くというのです。

 なぜかというと、欧米では、野宿の人の大半は、薬物やアルコールへの依存症を抱えているため、ホームレスへの支援は、依存症からの立ち直りの支援と重なるのだそうですが、日本では、そうした問題を持つわけでもない人が、職を失っただけで、住む家までもなくしてしまう実態にふれて、みなびっくりするというのです。

 といった話を皮切りに、雇用に関する日本の制度上の問題について、意見を聞きましたが、ここでの体験も、本の題材に使わせていただきました。

 また、クリスマスの夜には、ある著名人のパーティーに出席しましたが、来賓として挨拶をした町村前官房長官が、亡くなった作曲家の遠藤実さんに、国民栄誉賞が贈られることになった経過を、話されていました。

 それによると、この夜の主人公から電話で、遠藤さんに国民栄誉賞をと依頼された町村さんが、関係者の間をまわって、栄誉賞が実現したとのことでしたが、これだけ多くの人を励ましてくれた作曲家ですから、国民栄誉賞は当然としても、政治家が動かないとそうならないといった点に、少し違和感を覚えました。

 年が明けて、19日の午後、高知県出身の漫画家では最長老の、やなせたかしさんを、東京の事務所に訪ねました。

 この2月に、90歳を迎えるやなせさんは、卒寿を記念して百貨店や画廊で開かれる、展覧会の準備に忙しそうでしたが、以前お話を聞いたことがある、国際漫画賞に話を向けると、やなせさんからは、ぼやきの声が漏れました。

 この国際漫画賞は、お宅文化に造詣が深いことを売り物にしていた、麻生首相の肝いりで始まった、国際コンクールですが、外務省が大使館を通して、各国で出版されているストーリー漫画を集めて、それを審査するシステムです。

 やなせさんの話では、こうして集めた漫画を、30冊ほどより抜いた上で、吹き出しのせりふを、外務省の通訳が日本語に訳したものが、審査員であるやなせさんのもとに送られてくるのですが、ほとんどが直訳のため、読んでも面白くも何ともありません。

 そんなわけで、仕事の合間に見ているだけでも、くたびれてしまうそうですが、相当の時間を費やして、すべての作品に目を通しても、審査料はたったの2万5000円ということですので、やなせさんならずとも、辞退したくなるのは当然です。

 結局、審査員の役は、二人の後輩に譲ったということでしたが、お役所仕事は、どこでも変わりないことを、あらためて確認しました。

 1月の末からは、2月6日に予定されていた、障害者問題に関する講演に備えて、関係する何人かの方々のお話を聞きました。

 その中のお一人は、県内で重度心身障害者のための施設の、施設長をしている医師で、若い頃には、県立の肢体不自由児の施設で、治療にあたった経験があります。

 このため、30年前、40年前に治療をした子供たちが、成長した姿に再会する機会があるわけですが、そうした時に、昔の考え方でよかったんだと思うこともあれば、反省することもあると言います。

 では、反省することはと聞くと、医者も親も、治療と訓練によって、どこまでも機能が回復すると考えがちだが、そうではないと知らないといけないとの、答えが返ってきました。

 つまり、機能の回復には限りがあるのに、どこまでも、やればやるだけ機能が伸びると錯覚をするため、社会性を身につけるとか、別の能力を探し出すとか、その年代に、しておかなくてはならないことをする機会を、逃してしまうことになると言うのです。

 同じことは、講演の前日にお会いした、ご自身も視覚障害者で、その福祉活動に取り組んでいる女性からもうかがいましたので、講演の中で、言葉だけではない、医療と福祉の連携の必要性に触れました。

 障害者問題に関連して、もう一つ、話をうかがったのは、株式会社組織で高齢者福祉の事業を手がけている企業の社長で、A型と呼ばれる、障害者の就労支援のための事業所を併設することで、介護現場に、障害者のための職場づくりを進めています。

 具体的には、介護の現場の仕事を、掃除や食事、入居者とのコミュニケーションなどの大項目のもとに、60種類近くに分類して、就労を希望する障害者に、1日4時間で月に5万円余りの賃金を受けられる、職場を提供しています。

 これによって、従来のスタッフだけでは手がまわらないところにも、サービスの手が届くようになったとのことで、この春までには、40人の雇用を予定していました。

 実は、2月6日の講演は、話の材料が集まるだろうかと心配だったのですが、このように、事前にお会いできた、福祉関係の方々のおかげで、予定時間をオーバーする話ができました。

 それより前、1月31日には、四国八十八か所の、お遍路の取材のために来高された、俳優の宇津井健さんとお話をする機会がありました。

 若い頃の映画のことや撮影の裏話など、興味ある話題が数多くありましたが、2年余り前に、奥様が亡くなった時のエピソードをうかがって、感心したことがありました。

 それは、葬祭場で、奥様のお骨を壺に入れた時のことで、あまりに味気ない白い壺を見て、陶器などが好きだった妻は、きっと、「こんな中に入るのはいや」と言うに違いないと思ったのだそうです。

 そこで、知人の陶芸家に依頼して、自分でこねた土を使って、奥さんの分だけでなくご自身の分もふくめて、3つの壺を焼いてもらったとのことでした。

 自分も、これまでに何度も、こうした場面に立ち会ってきましたが、こうした感性は持ち合わせなかったなと、感心をしました。

 こうして、今年も、はや立春を過ぎてしまいましたが、この間に、本の原稿を書きあげることが出来ましたので、またぼつぼつと、ブログを再開することにします。

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