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2009年10月

2009/10/31

骨柄のメモ用紙(10月22日)

 22日午後、首の検査のため、整形外科に出かけま
すと、いかにも整形外科らしい図案の、メモ用紙と出
会いました。

 8月の選挙で、肉体的に少し無理をしたせいか、以
前からあまりよくなかった首の調子が、先月から、さ
らに悪くなりました。

 最近では、時々左の腕に、ジーンとしびれを感じる
こともありますので、この日、都内の病院の整形外科
で診察を受けました。

 レントゲンの写真をもとに、医師の診断を聞いたの
ですが、その際に医師が説明に使ったメモ用紙を見ま
すと、何やら、見慣れないデザインが印刷されていま
す。

 先生が席を立ったすきに、そのメモ用紙を手にとっ
てみますと、骨の絵が二つ書いてあるのです。

 一つは、腰から股関節にかけてとわかりましたが、
もう一つは、どの部位の骨かわかりません。

 いかにも、整形外科のメモ用紙に、ふさわしい図柄
だと思いましたので、話の種に一枚破ってポケットに
入れました。

 家に帰ってから、もう一度見たのですが、片方の図
柄は、どこの骨かわかりません。

 そこで、妻に、「こっちは腰から骨盤あたりの骨だ
けど、もう一つは、どのあたりかわかる?」と尋ねま
すと、「同じところを横から見た絵じゃないの」と、
あっさり答えが帰ってきました。

 骨柄などという言葉はないかもしれませんが、妻の
答えに、なるほどとうなずきながら、一風変わった骨
柄のメモ用紙を、もう一度まじまじと眺めました。

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2009/10/30

またも元気な卒寿と(10月20日)

 20日午前、高知県と中国との関係づくりにご尽力
をいただいた、食品関係の企業の、会長のもとを訪ね
ました。

 この方は、中国に幅広いネットワークを持っておら
れますので、高知の新しい港が、青島港と友好交流の
提携を結んだ際に、人脈を紹介していただくなど、大
変お世話になりました。

 もうかなりのお年のはずですので、「お幾つになら
れましたか」と尋ねますと、「90です」と、事もな
げに言われます。

 先日お会いした、漫画家のやなせたかしさんも90
歳の卒寿ですが、今時の卒寿は、なんでこんなに元気
なんだろうと思いながら、最近の中国の事情を尋ねま
すと、数字も名前も、詰まることなくすらすらと答え
が返ってきます。

 特に、中国の農業問題には、以前から深い関心を寄
せられていますので、中国で言う三農問題、つまり、
農業・農村・農民に関する話題では、様々な情報を教
えて下さいました。

 その中で、15年前に、これからは中国がビジネス
の相手だと考えて、中国への進出を決めたという話が
ありましたので、あらためて気がついたのですが、と
いうことは、会長が75歳の時に、その決断をされた
ことになります。

 90歳で、元気に仕事を続けるのもすごいですが、
75歳で重大な決断をするのもすごいと、二重に感嘆
してしまいました。

 自分が、卒寿の年令になったとして、こんなに元気
にしていられるだろうかと、帰りがけは、そればかり
が気になりました。

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閑中忙あり(10月19日) 

 19日午後、知事時代に、高知で共に仕事をした方
と、喫茶店で楽しいひと時を過ごしました。

 この方は、かつては、典型的な仕事人間でしたが、
奥さまが体調を崩されてからは、仕事の合間に、家事
を手伝うようになりました。

 それでも、高知での仕事を終えて、東京に戻ってか
らしばらくの間は、何か仕事を見つけようと動き回っ
たそうですが、奥さまから、少しは蓄えがあるから、
そんなに焦らなくても大丈夫と言われて、それまで以
上に、家事や地域の活動に打ち込むようになったと言
います。

 そのうちに、料理を通じては、だしの取り方や材料
の準備の段取りが、また自治会の活動を通じては、パ
ソコンのワードやエクセルの使い方がと、いろんな技
が身についてきます。

 そうなると、その道の勉強が忙しくなって、「忙中
閑」ならぬ「閑中忙」になると、いかにも楽しそうに
話されますので、聞いていて、「閑中忙」の暮らしぶ
りがうらやましくなりました。
 
 といって、このまま、閑の日々を送るほどの余裕も
ないしと、一方的にうらやましがっているうちに、時
がたってしまいました。

 話し終わって店を出ると、道の向かい側に、懐かし
い名前の看板を見つけました。

 それは、「とんかつグンマ」という店名で、小学生
の頃、通学の途中にあったこの店名を見て、無性に、
豚カツが食べたくなったことを思い出しました。

 一緒に店を出た彼に、道の向うの看板を指さしなが
らその話をしますと、「そんなに昔からある店なら、
きっと何かがあるんでしょう。今度、一度入ってみま
す」と言われます。

 自分の懐かしさだけで、味までは保障できないけれ
どと、不安になりましたが、思い出話をした責任上、
自分も、「閑中忙」にならないうちに、一度行ってみ
ないといけないと思いました。

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2009/10/29

陽明門の逆柱(10月18日)

 18日夜、テレビのクイズ番組を見ながら、妻と交
わした会話で、妻に一本取られてしまいました。

 それは、番組の中で、日光東照宮の陽明門の柱は、
一本だけ彫刻の模様が逆さになっているが、それはな
ぜかという問題が出た時のことです。

 そう言えば、以前東照宮に行った時に、その話を聞
いたことがあったと思ったのですが、その訳は、なか
なか思い出せません。

 答えは、建物は完成と同時に崩壊が始まるため、柱
の模様を一本だけ逆さにして、建物がまだ未完成だと
みなすことで、建物の寿命が長持ちするように願った
というものでした。

 そうだそうだと思いながら、一緒に番組を見ていた
妻に、「僕も、人間的に未完成な部分があるから、長
持ちするかもしれないね」と、やや謙遜を込めて話し
かけました。

 すると、「陽明門は、何本もある柱のうちの、一本
だけが逆さなんでしょ。大ちゃんは、柱が何本も逆さ
になってるから、陽明門と比べちゃ駄目よ」と、言わ
れてしまいました。

 「そうか」と、ちょっと照れてみたものの、切り返
す言葉も思いつかず、そのまま静かに、クイズを見続
けました。

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モンタナの風(10月16日)

 16日午前、海外の事情に詳しい知人から、アメリ
カのモンタナ州にある、開拓時代の雰囲気を残す、あ
る町の話を聞きました。

 この町は、人口が6000人ほどの町で、そこに住
んでいる日本の方のホームページを見ると、町の中に
は、信号機は3つしかないそうです。

 とはいえ、美しい自然に囲まれた町ですし、イエロ
ーストーン国立公園の玄関口にあたるため、シーズン
には観光客でにぎわいます。

 また、開拓時代の趣きを残す、レンガ造りの町並み
が残っているため、ロバート・レッドフォードが監督
と主演を務めた、「モンタナの風に抱かれて」など、
数々の映画のロケ地にもなりました。

 この日会った知人が、アメリカに向かう途中、機中
で隣り合わせたのが、この町の町会議員でした。

 話を聞くとこの町は、同じく自然が豊かで、人口の
規模も似かよっている上州のある町と、10数年来、
姉妹都市の交流を続けていると言います。

 この議員は、問わず語りに、日本を訪れると相手の
町では、黒塗りの車で迎えてくれるし、立派なお土産
もいただくが、我が町は、たいしたおもてなしも出来
ないと嘆きます。

 議員の報酬も、一回議会に出るたびに、数十ドルを
受け取る仕組みで、仕事は別に持っているとのことで
した。

 両方の町の名前をあえて伏せたのは、日本側の町の
現状を批判していると、誤解されてはいけないと考え
たからですが、人口や自然の美しさなど、共通点の多
い町どうしでも、過去を現在に、そして将来にどうつ
なげるか、日米では、考え方に大きな違いがあること
を再認識しました。

 ちなみに、この日本側の町は、現在、ダム計画の中
止をめぐって揺れている町で、源頼朝の伝説が残る、
町の観光資源の温泉も、ダムが完成すれば、自然に湧
き出している源泉そのものが、湖底に沈む運命にあり
ます。

 もちろん、ダム問題の責任は、すべて国の側にあっ
て、町の方々には何の責任もありませんし、治水や利
水に関わる問題は、国情によって大きく異なることも
よくわかっていますが、この機会に、国と地方との関
係もふくめて、モンタナの風を、一度抱きとめてみて
はどうかと思いました。

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2009/10/27

鉢巻をはずせば(10月13日)

 13日昼前、久しぶりにお会いした元同業者の大学
教授から、現在の自民党が置かれた状況を、明治維新
後の、保守派にたとえた話を聞きました。

 それは、ちょんまげから散切りへという、髪の形の
変化を例にとった話で、明治維新の後、維新を推進す
る側は、率先してちょんまげを落として、散切り頭を
文明開化の象徴にしました。

 これに対して保守派が、いつまでも、ちょんまげ姿
のままで対立の構図を演出しても、もはや勝負にはな
りません。

 ちょんまげを切り落として、同じ散切り頭になって
初めて、議論の土俵に上がれたわけです。

 これと同じように、自民党も、ちょんまげをつけた
まま相手を批判するのではなく、まずは散切り頭にな
って、議論を始める必要があるというのが、この旧知
の大学教授の話でした。

 何となく、雰囲気の感じられる例えでしたが、この
話を聞いていて、それを今の自民党にあてはめるのな
ら、ちょんまげではなく、鉢巻をはずせということか
なと感じました。

 というのも、自民党が引きずってきた数々の問題の
一つが、鉢巻をまいたおじさんたちが気勢を上げる、
ある種の大会の開催と関わりがあるからです。

 これまでの自民党の強みは、政治家が各分野ごとに
ぶんどってきた予算を、関連の業界に流して、そのか
わりに票をもらうという仕組みにありました。

 この仕組みを機能させるためには、まずは、各分野
の事業ごとに、全国枠の予算を確保する必要がありま
すから、自民党政権の下では、毎年関係者が分野別の
決起大会を開いて、予算の獲得に向けて気勢を上げて
いました。
 
 かく言う私も、知事時代には、何度もこうした大会
に参加して、ガンバローの掛け声とともに、右手を高
く突きあげていましたが、この種の大会に欠かせない
小道具の一つが、景気づけに頭に巻く鉢巻です。

 私自身は、頭をしめつけるのが大嫌いなため、ほと
んど鉢巻をしませんでしたが、この手の大会に参加し
た経験から、平成維新にあたっては、明治のちょんま
げに代わって、鉢巻をはずすことから、新しい議論が
始まるのかもしれないと思いました。

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2009/10/26

時のアセスメント(10月11日)

 11日朝のテレビ番組で、計画から長い時間が経過
したダムの、ランキングが紹介されていましたが、そ
れを見て思い出した言葉がありした。

 それは、「時のアセスメント」という言葉で、12
年前に北海道が、ダムなど6つの事業を見直すために
導入しました。

 その狙いは、時の経過によって、その事業が必要と
された状況や、住民のニーズも大きく変わってくるた
め、初めに考えられた、事業の役割や効果を、もう一
度評価し直そうというものです。

 それまでのアセスメントは、日本語で「環境影響評
価」と訳されているように、大型の工事などが、周囲
の環境に与える影響を評価する仕組みでした。

 これを、計画または事業の着手から、現在までの時
間の経過に応用して、事業を見直す評価基準に使おう
という、「時のアセスメント」の考え方は、一度始ま
ったら止まらないと言われた、公共事業を再評価する
取り組みとして、当時、大きな話題になりました。

 この日のテレビで、話題の「八ッ場ダム」など、計
画から長い時間がたっても、完成はおろか、ダム本体
の工事にも入っていない事業の、全国ランキングを見
ているうちに、地方だけでなく国でも、早いうちから
「時のアセスメント」を取り入れていれば、今のよう
な事態に、地域が巻き込まれずにすんだのにと、残念
に思えてきました。

 八ッ場ダムの計画を中止するかどうかが、大きな政
治問題になった今も、どこからも、「時のアセスメン
ト」という言葉が出てこないのも寂しいことです。

 北海道が導入し始めてから12年、「時のアセスメ
ント」という考え方そのものが、時の経過にさらされ
てしまったのかもしれません。

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2009/10/25

聖火のトーチを手に(10月8日)

 8日夜、昨年開かれた北京オリンピックで、日本人
としては唯一人、聖火ランナーを務めた方と、夕食を
ともにしました。

 この方とは、まったくの初対面でしたが、知り合い
の中国の方の紹介で、一緒にお食事をする機会を得ま
した。

 テレビなどでも紹介されましたので、ご存知の方も
あるでしょうが、北京オリンピックの際、北京の競技
場まで聖火をつなぐランナーの中には、8人の外国人
がふくまれていました。

 その中の一人で、日本人では唯一人、聖火のトーチ
を手にしたこの方は、勤め先の企業グループが、オリ
ンピックのスポンサーだったことから、スポンサー枠
に加え、中国への貢献も評価されて、聖火ランナーに
選ばれました。

 聞けば、当初は、400メートル走る予定だったそ
うですが、チベット問題など警備上の問題が起きたた
め、走る距離は、60メートルに短縮されてしまいま
した。

 それでも、ものものしい警備に囲まれて、甘粛省の
蘭州の街を走った経験は、一生の思い出になると、に
こやかに語られます。
 
 この方を囲んで、この席には2人の中国の青年がい
ましたが、2人が語る日本人観は、なるほどと勉強に
なりました。

 例えば、日本人は性善説で、相手をあまり疑わない
ため、後になってから、こんなはずではなかったと、
悔やむケースが多いように思うと言います。

 これに対して、中国人は性悪説だから、何でも先払
いしないとやってくれないと、両国の国民性の違いを
説明してくれました。

 こうしたこともあって、反日教育を受けた中国の若
者でも、日本に来てしばらくすると、日本人は思った
ほど悪い人間ではないと、認識を変えるそうですが、
さらにしばらくすると、日本こそ社会主義の国だと言
い出すそうで、こちらは、素直には喜べない評価に思
えました。

 四方山話も、あっという間に3時間を超えて、そろ
そろお開きとなった時、元聖火ランナーが、カバンか
ら長い筒を取り出します。

 何と、実際の聖火リレーに使ったトーチを、それぞ
れのランナーに、記念品として渡してくれたとのこと
で、聖火のトーチを片手に、みんなで記念の写真を撮
りました。

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2009/10/24

無駄の基準は(10月7日)

 7日夜、テレビの報道番組に出ていた、鳩山内閣の
キーマンの一人である、副大臣の話を聞いていて、い
くつか疑問に思うことがありました。

 この方は、旧大蔵省、現在の財務省の出身で、初め
て選挙に出られる時、共通の知人の紹介でお会いした
こともありますので、まんざら知らない仲ではありま
せん。

 この日は、自民党政権の時代に作られた、14兆円
余りの補正予算を、どれだけ削り込めるかという話題
で、キャスターの質問を受けます。

 まず、予算を削るという表現に対して、「削るので
はなく、使い方を変えるのだ」と強調されました。
 
 それは確かに、めざす目標と求める結果は、予算の
付けかえですが、そのための手段として、現在組まれ
ている予算を削ろうとしているのですから、予算の削
減が何か後ろめたいことかのように、言葉を言いかえ
る必要はないと思います。

 また、補正予算を削減しても、なお財源がねん出で
きない場合の、国債発行の可能性を問われると、「こ
れまでは、まず歳出の項目を並べ立てたうえ、足りな
い分を、そのまま国債の発行で補っていたので、市場
の信用を失った」と説明されます。

 それは、その通りですが、これからは、国債の市場
を見て、市場の信頼を得られる範囲で、国債を発行す
るのだと言われますと、足らない分は、予定していた
事業をやめるのか、それとも税金を上げるのかと尋ね
たくなります。

 このやり取りの中で、「足りない分」と言う代わり
に、「たらずまえ」という言葉を使われたのも、少し
ひっかかりました。

 「たらずまえ」は漢字では「不足前」と書いて、不
足分を意味しますが、財政に関わる話の時、役人が好
んで使う言葉で、一般には、あまり使われない表現だ
と私は思います。

 この指摘が、重箱の隅をつつく指摘であることは、
自分にもよくわかっていますが、こうした表現が自然
に出るところに、政治主導や国民目線とは、まだまだ
ずれがあると感じたのでした。

 もっと大きな疑問は、予算を削減する理由なってい
る、「無駄」の基準がはっきりしないことです。

 不要不急のうち、不急はわかりますが、不要なもの
要らないもののとは何なのか、まずはその基準を示す
のが、国民の目線に立った政治ではないかと思うので
す。

 その説明がないまま、削減額が2兆5千億円では足
りないので、もう少し出せないかと言われると、それ
では、無駄かどうかが基準なのではなく、始めに3兆
円削減という、数字ありきなのですねと言いたくもな
ります。

 無駄の基準があれば、削減は1兆円で終わっても、
おかしくはありません。

 さもなければ、麻生政権の下での補正予算は、執行
済みを除いてはすべてを白紙にしたうえ、自らが、景
気対策として必要だと感じる予算だけを、改めて組み
直すのが筋ではないかと思います。

 その意味では、政権交代による過激なまでの思い切
りが、弱いようにも思えますし、これではやがて、政
治主導という言葉が、財務省による査定の、隠れ蓑に
なりかねないとの危惧も持ちました。

 さらに、驚いたのは、「数字ではなく、何が変わっ
たのかを見てほしいというお話、勉強になりました」
という、キャスターのまとめの言葉で、ここまでマス
コミにこびへつらわられては、政権の側も後が大変だ
ろうと、余計な気を使ってしまいました。

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仲間入りの難しさ(10月6日)

 6日午後、知り合いの出版社の人に、今売れている
本は、どんな本かと尋ねてみました。

 最初に話題に出たのは、「東大合格性のノートはか
ならず美しい」という本のことで、これが十数万部と
あたったため、ノートブックものが一つの流れだとい
います。

 この本に関しては、著者が集めた、東大生のノート
二百冊は、いずれも美しかったのだろうが、少なくと
も自分のノートは汚くて、人には読めないといった、
東大出身者のコメントが、いくつかネット上をにぎわ
していましたが、少子化の中で、東大のブランド価値
が、ますます高くなっている証かもしれません。

 また、サラリーマンのハウツウものも、相変わらず
強いそうですが、ひと昔前のように、いかにお金をふ
やすかではなく、いかにお金を減らさないかの、ハウ
ツウが主流だというのも、今風のわびしさが漂う話で
した。

 では、そんな中、村上春樹さんの小説は、どうして
世界中で売れているのかと聞きますと、人間関係の心
理描写が主で、日本独自の風習や自然の情景が出てこ
ないため、世界中の人に、受けいれられやすいのだと
の答えでした。

 もちろん、それだけの理由で、世界的なベストセラ
ーになっているわけではないでしょうが、グローバル
化の時代には、小説も、世界に通用する素地を、持っ
ていないといけないというわけです。

 ただ、ノートもハウツウもグローバル基準も、いず
れも、自分とは縁遠そうなことなので、今のところ仲
間入りは難しいと自覚しました。

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国営マンガ喫茶の勧め(10月5日)

 東京に移って初日にあたる5日は、高知の出身で、
知事時代から大変お世話になった、漫画家のやなせた
かしさんを、アトリエに訪ねました。

 今年、90歳を迎えたやなせさんは、お会いするた
びに、「もう駄目だよ」と、笑いながら弱音を吐かれ
ますが、お話の内容は、いつも楽しく元気です。

 この日は、選挙後初めての訪問でしたので、やなせ
さんから、「その時は、残念だったと悔しい思いをし
ても、後になってみると、その方が良かったと思える
ことがよくある」と、励まされました。

 自らの経験として話されたことの一つは、軍隊時代
の思い出ですが、将校への登竜門の試験の最中に、眠
っているのが見つかって、下士官どまりの乙種にされ
てしまいました。

 その時は、実に悔しい思いをされたそうですが、お
陰で、暗号担当の下士官になって、前線に出向くこと
もなく、無事、大陸から帰還できたというのです。

 また、受験の時も、第一志望の東京芸大に落ちて、
その時はがっかりしたものの、代わりに入学したとこ
ろが実に良い学校で、ここで、今日の基礎がすべて出
来たと言われます。

 卒寿になる、人生の大先輩からの励ましを、有難く
聞きましたが、励まされてばかりではと思って、補正
予算の見直しの中で無駄な箱物の象徴とされた、国立
のメディア芸術総合センターの話題を振りました。

 すると、役人がやる限り、絶対に失敗するからやめ
た方がいいというのがご託宣でしたが、では、どうす
れば経営が成り立つだろうかと尋ねますと、まず、一
階のスペースはただで遊べるようにして、人が集まる
ように仕掛けないといけないと言われます。

 「こんなもの、一階の入り口から金を取ったら、誰
も来やしない」というのが、その理由でした。

 その上で、マンガ喫茶でお金をとればいいというの
が、やなせさんの意見です。

 そう言えば、反対派の中には、国営のマンガ喫茶を
作るのかと批判していた人がいましたが、そのことに
水を向けますと、「国営のマンガ喫茶でいいじゃない
の」と、笑って答えられました。

 確かに、百億以上もかける必要はありませんが、国
営のマンガ喫茶を作るのも、マンガ文化への国の意気
込みが伝わって、面白いかもしれないと思いました。

 このセンターの構想を、進めようとした側も反対を
した側も、どちらも、マンガの価値がわかっていない
と、やなせさんは言いたかったのかもしれません。

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2009/10/23

嬉し恥ずかし(10月4日)

 4日夕方、18年住みなれた、高知での暮らしにひ
と区切りをつけて、高知龍馬空港発の飛行機で、東京
に向かいました。

 見送りに来て下さる方もあるだろうと思って、少し
早目に空港に着くと、すでに、何人かの方が待ってい
てくれました。

 チェックインを終えて、二階のロビーにあがります
と、時がたつにつれて、次々と懐かしい顔が姿を見せ
ます。

 あれよあれよという間に、人数がふくれあがって、
出発前には、150人ほどの方々がロビーに集まりま
した。

 いよいよ、搭乗口へ移動という時、荷物検査の入口
に向かう左右に、見送りの皆さんが二手に分かれて、
長い列を作ってくれます。

 まるで、結婚式を終えて教会を出る新婚さんのよう
で、嬉し恥ずかしの思いでしたが、お一人お一人と固
く握手をかわしながら、列の間を進みました。

 知事を退任して、県庁を後にする時にも、職員を含
めて、大勢の方が見送ってくれましたが、見送りを受
けることは、決してさみしいことではありません。

 高知への思いと関わりは、これからも変わることは
ありませんので、この日も、見送りの皆さんから、新
しい出発に向けた活力をもらいました。

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うだきがつお(10月2日)

 2日夜、仲良しのテント屋さんの二階で、なじみの
友人たちと、手づくりの味に舌鼓を打ちました。

 あさって東京にたつという日の夜ですので、家の片
づけなど、やらなければいけない家事が残っていまし
たが、10年を超えるつき合いの、気のおけない方々
ですので、喜んでお誘いを受けました。

 庶民という言葉は、自らを、それらしく気取った人
がよく使う言葉ですので、あまり好きではありません
が、この日集まったのは、文字通り庶民と呼ぶにふさ
わしい仲間で、家の主のテント屋さんをはじめ、仕事
ももろもろです。

 15人ほどが囲んだテーブルには、手づくりの料理
が所狭しと並べられ、私は最初に、大好物のジャガイ
モの田楽風にかぶりつきました。

 山や川が大好きという、自然派の面々だけに、興が
進むにつれて、海の幸や山の幸の話題が次々と飛びか
いますが、その中に、初めて耳にする鰹の呼び方があ
りました。

 それは、「うだきがつお」という言葉です。

 18年高知に暮らす中で、嫌というほど鰹を食べて
きましたので、鰹に関わる話は大抵聞いたことがある
のですが、「うだきがつお」は初耳でした。
 
 話を聞くにつれ、ようやく、「抱き鰹」が訛って、
「うだき」になったらしいことがわかりました。

 それでは、「抱き鰹」とは何なのかですが、通常、
鰹の一本釣りは、太い竿で釣り上げた鰹を、そのまま
弧を描くように後ろに放り投げて、船板の上に落とし
ます。

 このため、船板に叩きつけられた時の衝撃で、鰹が
ストレスを受けて、味が落ちるというのです。

 これに対して、「うだきがつお」は、鰹を釣り上げ
ると同時に竿を上に立てることで、糸にかかったまま
釣り人の側に来る鰹を、小脇に抱きとめるという釣り
方です。

 それが、「抱き鰹」の名の由来のようですが、釣ら
れた鰹にとっても、固い板に叩きつけられるより、人
に抱かれる方が気持ちも和らぐというわけで、「うだ
きがつお」が一番うまいというのが、この場の結論で
した。

 この他にも、マイタケの在りかなど、自然派ならで
はの経験談を一杯聞いて、おなかと一緒に頭の中も、
楽しい知識で満たされました。

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キムチとチクワ(9月30日)

 30日昼、18年前に、わざわざ東京まで来て、知
事選挙に出ないかと声をかけてくれた、二人の知人の
誘いで、愛媛県境の山間の町、梼原町で、韓国料理を
囲んで、ゆかりの方々と懇談しました。

 場所は鷹取という地区ですが、梼原町に通じる国道
から、さらに20分ほど入った山の中に、韓国料理の
レストランがあります。

 なぜ、山奥に韓国レストランがあるのかと言えば、
そこには、それなりの理由があります。

 かれこれ、20年近く前からと記憶していますが、
梼原町には毎年、韓国の大学生が、研究のために訪れ
ていたため、長年にわたって、韓国との交流が進んで
きました。

 そうした中、鷹取地区の人たちが、地域おこしの一
つとして始めたのが、本場直伝で作り方を教わった、
「鷹取キムチ」でした。

 それが、好評だったことから、去年7月に、金曜か
ら日曜までの週3日だけ、予約制で営業される、韓国
料理のレストランが開店したのです。

 この日の昼、顔なじみの方々とテーブルを囲みなが
ら、チゲ鍋やビビンバでおなかを満たしました。

 店を切り盛りする、地元の女性に聞くと、開店から
1年余りの間に、1800人ほどのお客さんが来店し
たとのことですが、ちょっとびっくりしたのは、今年
の1月に、産休を取ったと聞いた時です。

 とても産休を取るお年には見えないがと、いぶかり
ながら続きを聞くと、生まれたばかりの、孫の面倒を
見るために「産休」を取ったとのことで、なんだそう
だったのかと納得しました。

 韓国料理の帰りがけ、ちょっと甘いものが食べたく
なって、須崎市にある、知り合いのパン屋さんを訪ね
ました。

 すると、数々のパンが並ぶ棚の一角に、大好評と書
かれた、チクワいりのパンがあります。

 須崎市は、海沿いの町で、蒲鉾などねり物を作る工
場もありますので、若い二代目が、地元の素材をパン
の具に使おうと、工夫して開発したといいます。

 味は如何にと、ちょっと心配をしながらひと噛みし
ますと、実にいい歯ごたえで、ソーセージ感覚で美味
しく平らげました。

 人口の減少など、地方はいずこも厳しい課題を抱え
ていますが、山里のキムチにパン屋のチクワと、地域
の知恵を、味わうことの出来る一日でした。


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「この中に幸せがある」(9月26日)

 26日午後、長く私のもとで副知事を務めて下さっ
た、恩ある方の家を訪ねました。

 この方は、副知事を退任した後、以前県が行った、
ある企業への融資をめぐって背任の罪に問われ、実刑
が確定して服役を余儀なくされました。

 私にとっては、文字通り断腸の思いの出来事でした
が、様々な事情から、長い間ご無沙汰が続いて、風の
便りを聞くだけになっていました。

 この度、東京に居を移すにあたって、ご無沙汰のお
詫びと、長年のお礼の気持ちを伝えるため、妻ともど
もお家を訪ねました。

 居間に置かれた、ベッドに腰かけたご本人と向き合
うと、話すべきことが一杯あり過ぎて、言葉が見つか
りません。

 結局、選挙のことなど、ありきたりの世間話に終始
してしまいましたが、お茶を運んで下さった、奥様の
ひと言が胸に応えました。

 それは、「いろんなことがありましたけど、過ぎた
ことを振り返っても何にもなりません。昔はよく喧嘩
をしましたけれど、今では言い合いもしなくなりまし
た」と述懐された後、広くはない部屋の中を、見渡す
ような素振りで口にされた、「今は、この中に幸せが
あるんです」という言葉でした。

 帰り際、門まで送りに出て下さった奥様に、「ご主
人をお守りすることが出来ずに、申し訳ありませんで
した」と声をかけますと、優しい微笑みを返して下さ
いました。

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東宮侍従長からの年賀状(9月25日)

 5日に、東部地区から始めた挨拶まわりで、25日
には、県の西端の大月町や土佐清水市まで、うかがう
ことが出来ました。

 広い県内ですので、わずか1ヶ月の間に、全ての市
町村を、くまなくまわることは出来ませんでしたが、
昨日から泊まり込みで、県の西部を訪ねましたので、
東から西まで、一通り足を運ぶことが出来ました。

 この日は、朝早くに、宿泊先の宿毛市を出て、県の
西の端にあたる大月町に向かいました。

 待ち合わせ先の、道の駅で待っていてくれたのは、
18年前に、知事選挙への出馬を決める前からのつき
合いになる、柏島という島のおばちゃんたちです。

 柏島は、海中の生物が豊富なため、スキューバダイ
ビングの愛好家には、よく知られた場所ですし、何年
か前には、「釣りバカ日誌」のロケ地になったため、
高知市内からは、車で3時間かかる遠隔地にもかかわ
らず、知る人ぞ知るスポットになっています。

 とはいえ、わざわざ、島から駆けつけてくれたおば
ちゃんたちは、そんな時勢に流されることもなく、全
国でも先駆けとなったマグロの養殖や、小さな食堂の
経営を通して、島の暮らしを守り続けてきました。

 「きみちゃん食堂」という、小さな島の小さな食堂
を初めて訪ねたのは、最初の知事選挙に出馬する半年
前の、平成3年5月4日のことでした。

 その日に書いた、NHK記者の当時のサインをはじ
め、食堂の壁には、立ち寄るたびに、毎年のように書
いた色紙を飾ってくれています。

 この食堂のファンは、私の他にも数多くいますが、
その一人は、かつて、高知県警の本部長として赴任し
ていた、前の東宮侍従長です。

 食堂の主「きみちゃん」によれば、この方も毎年、
年賀状をくれるとのことで、東宮職の頃は、侍従長室
の直通電話も書いてあったといいます。

 さすがに、一度も、直通の電話を鳴らすことはなか
ったそうですが、今年この方は、ヨーロッパの国の大
使に転任しましたので、今度は、ヨーロッパから年賀
状が届くかもしれないねと話したことでした。

 高知の市内からでさえ、そうしばしばは出かけられ
ない場所ながら、人と人、心と心は、いつまでもつな
がっていると思うと、とても温かい気持ちになりまし
た。


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官僚たちの夏(9月22日)

 22日午後、霞ヶ関に籍を置く方と話をする中で、
NHKのドラマ、「官僚たちの夏」が話題になりまし
た。

 このドラマは、佐藤政権の時代の、通産官僚が主人
公ですが、ラストシーンは、沖縄の返還をめぐって、
アメリカの意向に逆らいにくい日本政府と、大統領選
挙を前に、保護政策に舵を切った、アメリカ政府との
思惑のはざ間で、日本の繊維産業が力を失っていくさ
まと、それを守ろうとして果たせなかった、通産官僚
の無念さで締めくくられています。

 この日、お話をした方は、霞ヶ関の産業政策とも関
わりの深い方ですので、このドラマの感想を尋ねてみ
ました。

 すると、国内産業の育成と、雇用の確保のために奮
闘する姿は、一見美しく見えるけれど、そのような政
策を取り続けてきたことが、産業構造の転換や、地域
の自立を遅らせてきた側面も、忘れてはならないとの
答えです。

 例えばと言って、例に出されたのは、エネルギー革
命の中で斜陽化した、石炭産業を抱える産炭地への対
応でした。

 エネルギーと繊維とでは、事情が全く違いますが、
石炭の場合、早目に見切りをつけずに、補助金などの
支援を出し続けてきたことが、地域の自立を妨げたと
いうわけです。

 その象徴的な結果が、夕張市の財政破綻ということ
かもしれません。

 農林漁業にも、公共事業にも言えることですが、時
代の変化の中で力の衰えた産業を、いかにして支える
か、または構造転換を図るかは、地域の雇用などに絡
む直近の課題と、産業としての将来にわたる可能性と
の間に、折り合いをつけにくい現実があるため、かな
り対応の難しい問題です。

 民主党政権が誕生して、公共事業の一層の削減や、
農業者への所得補償など、産業に関わる政策も、大き
く変わってくるはずですが、新政権を迎える「官僚た
ちの夏」は、どんな展開になるのでしょうか。

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2009/10/18

基準づくりの本音と建前(9月15日)

15日午後、高知市内のホテルで、リウマチ友の会の方々とお茶をしました。
県内のリウマチ患者でつくる、友の会の方々とは、知事時代に陳情を受けたのがご縁で、長くおつき合いが続いています。

この日は、私が、いったん高知を離れる決意をしたとの報道を受けて、友の会の皆さんから、お茶のお誘いがありました。

話は昔話から始りましたが、かつて、県が補助をして導入した後、民間のバス会社に運営してもらっていた、障害者のためのリフト付きのバスが、風前の灯の状態だといいます。

聞けば、福祉タクシーなどの普及も一因ですが、車椅子でそのまま乗れる構造のため、乗客の数が限定されて、稼働率が、年々悪くなっていることが響いているのだそうです。

当時は、全国的にも先進的な試みで、県外の大会などにでかけた時には、各県の会員が、わざわざバスを見に来てくれたというのが、友の会の皆さんの思い出で、何とかいい知恵はないかと投げかけられましたが、即答できる知恵は浮かびませんでした。

もう一つ考えさせられたのは、特定疾患、いわゆる難病の指定基準についての、リウマチ患者の皆さんの受けとめ方です。

もちろん、難病の指定にあたっては、原因がよくわからない、症状が重い、国が関与しないと治療法の確立が難しいなど、一定の基準があるわけですが、友の会の方々は、リウマチも、十分その基準に該当していると考えています。

では、どうして難病に指定されないかと言えば、患者の数が、およそ70万人と多いことが、理由ではないかといぶかるのです。

つまり、指定の要件と言われるものは、いわば建前の基準で、その要件に当たる疾患の中で、患者の数が5万人程度までと、国の財政負担が、あまりに重くならないものを指定するというのが、本音ではないかというのが、友の会の皆さんの見解でした。
それが証拠に、パーキンソン病の患者数が5万人を超えた時、指定を外されそうになったという話もありました。

自分で調べたわけではありませんので、これ以上、責任を持って語ることは出来ませんが、役所が何かの基準を決める場合、背景にある本音は、財政上の理由だったといった例は、十分に考えられることだと思います。

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2009/10/17

 児童手当の現実味(9月5日)

 5日は、一日かけて、県内の東部地区で、長年お世話になった方々に、ご挨拶をしてまわりました。

これは、今回の選挙の結果を受けて、いったん高知を離れ、東京に、活動の場を移すことを決意したからですが、挨拶まわり初日のこの日は、朝早くに家を出発して、県内では最も東部に位置する、東洋町と室戸市を訪ねました。

それぞれのお宅やお店に、多くの方が集まって下さいましたので、今後の身の振り方など、数多くの質問を受けましたが、現在の政治状況に対しても、いろんな声を聞きました。

その中で、なるほど、そんな見方もあるのかと思ったのは、民主党がマニフェストに掲げた、児童手当に関する受けとめです。

その方は、自公政権のもとでの定額給付金があったから、月に2万6千円の児童手当を支給するという、民主党の主張が現実味をおびたと言います。

その心は、定額給付金がなければ、子供一人頭、毎月2万6千円を支給すると言っても、そんな現金をばらまくような真似は出来ないだろうと疑ったのに、定額給付金の実績があったため、2万6千円の支給が、信じられるようになったというものでした。

多額の児童手当の支給をめぐっては、所得制限をつけるべきだなど、様々な意見が聞かれますが、自公政権のお陰で国民の支持が得られたという説は、初めてでしたので、立場は別にして、変化の兆しへの関心は高いと思いました。 

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2009/10/16

警察に出頭(9月1日)


1日午前、選挙運動中、街頭演説の途中に受けた妨害行為に対して、被害者としての事情聴取を受けるため、市内の警察署に出向きました。

被害者という立場とはいえ、警察に出かけるのは、あまり気持ちの良いことではありませんが、警察署の受付に着くと、担当の方が迎えに出てくれて、中庭を隔てた別棟の一室に通されました。
その部屋で、担当の方と向き合うと、早速、当日の様子について尋ねられます。

わずか4日前のことですが、演説中は、気持ちを集中させていますし、特に、男が声を荒げて近づいて来た時には、負けてはならじと、こちらも声のトーンを高めていましたので、その時何が起きたかを、詳しく思い出すことが出来ません。

すぐそばにいた、仲間のスタッフによれば、マイクを持っていた手を男に叩かれたそうですが、それさえ覚えていないのです。
覚えているのは、大きな声をあげながら、右斜め前から男が近づいてきたことくらいですので、男との距離はどれくらいだったかなどと問われても、正直なところ返答に困ってしまいました。

この後、警察車両の、駐車スペースになっている中庭に出て、警察官を被疑者に見立てての、写真撮影が行われましたが、これは初めての体験で、変な緊張をしてしまいました。

もちろん、事の次第を明確にするための事情聴取ですから、その必要性はよくわかるのですが、この日の体験から、一つ感じたことがありました。

それは、今回のような単純な事件ならいざ知らず、裁判で徹底して争われるような大きな事件の場合、あまりはっきりとしない、被害者の記憶を無理に引き出すと、後に禍根を残さないかということです。

というのも、そうした被害調書をもとに、事件の筋立てを描いてしまうと、裁判の場で被疑者の側から、「この距離と角度では、こんな傷口にはならない」などと反論されて、裁判官や裁判員の、心証を崩すことになりかねないからです。

昼前には、警察署を後にしましたが、事件捜査や裁判について、考えさせられるひと時でした。

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2009/10/15

自爆テロの後遺症(8月31日)

真夏の選挙戦が終わって、高知1区から出馬した私は、力及ばず次点にとどまりました。

 衆議院の解散以来、今月17日までの36日間は、日々の活動の様子を、カウントダウン方式でブログに書きました。

 しかし、総選挙が公示された18日からは、ブログを書きかえると選挙違反になりますので、ブログはお休みをしていました。

 選挙中は、連日選挙カーに乗り込んで、沿道で手を振ったり、家の前に出て下さったりする方がいれば、選挙カーを降りて、一人一人と握手をしてまわりました。
また、一日に少なくとも12回以上は、街頭での演説に立ちました。
その中で、演説中に、大きな声を出しながら近寄ってきた男性に、マイクを持つ手をこずかれるという、「事件」にも遭遇しました。

 二大政党制と言われる中で、あえて無所属を通すなど、今回の戦いでは、頑なに自分流を貫きましたが、自分流だけでは、時流に棹さすことは出来ませんでした。

 以前から、勝負事には、「勝ちに不思議勝ちあり、負けに不思議負けなし」という言葉があります。
勝った時には、どうして勝ったのか理由がわからないといった、偶然の勝ちがあるけれども、負けた時には必ず、負けるだけの原因があるという意味です。
ですから、私の負けにも、時流だけではない原因があることを自覚しています。

 とはいえ、17日のブログに、付録として付けましたように、知事を退任してからの1年8ヶ月の間に、政治や国に対する自分の考え方を、「大二郎の旗」という冊子や、「未来へ」と題する本に、まとめることが出来ました。

 「大二郎の旗」を発表した頃、ある方から、「あまりに自分を曲げずにいると、孤高の人になるぞ」と、注意されたことがあります。
今回は、ご指摘の通りの結果になりましたが、自分のよって立つ場所を明確に出来たことは、これからの生き方に、大いに役に立つと自負しています。

 今回の選挙を、ひと言で表せば、麻生さんの自爆テロでした。
しかも、敵ではなく、味方に多くの被害を出すという、珍しいタイプの自爆テロでした。
もちろん、これによって民主党政権が誕生して、世の中の流れが大きく変わることを、私は、起こるべくして起きた、当然のことと受けとめますし、新政権の下での社会実験にも、大いに期待をします。

ただ、権力だけでなく気力も失った感のある、現在の政権与党の姿を見る時、日本の政治にとって、この自爆テロの後遺症は、かなり長く尾を引きそうに思えます。

 前回と今回の選挙を見比べると、「郵政民営化」の風が吹き荒れた前回に対して、今回は、「政権交代」という名の突風が吹きました。

 最近の政治状況を、よく「劇場型」と評しますが、観客の中には、上演されている芝居の内容とは関わりなく、ただ面白がって手を叩いている人が、少なからずいるのではないかと気にかかります。

 長かった運動のお陰で、体重は3〜4キロ落ちて、体もスリムになりました。
また、真夏の選挙で、色白の肌もすっかり焦げ、キーボードを打つ左の腕には、腕時計の跡がくっきり白く残っています。

 天から授かった、この休息の時間を生かして、これからのことを、じっくりと考えたいと思います。

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空白の1ヶ月半の訳


 8月30日の投開票で、真夏の選挙戦が終わりをとげましたので、早速、ブログに復帰しようと思ったのですが、いざパソコンに向かうと、ブログの頁にログインするための、パスワードが思い出せません。

 そもそも、IDとパスワードを書き留めた手帳が、しばらく前から見つからなくなっていたのですが、それでも、ほぼ毎日ブログを更新していましたので、一々メモを見なくても、習慣で身についた記憶で、ログインすることが出来ました。
 
 ところが、選挙が終わった翌日の8月31日に、ページを開こうとしたところ、どうしても、パスワードが思い出せません。
 
日々の運動に熱中するうち、徐々に記憶が薄れてしまったらしく、パスワードを構成する数字とローマ字は、頭に思い浮かぶのですが、それをどう並べ変えても、はねつけられてしまいます。

 しからばと、「パスワードを忘れた方はこちら」というサイトをクリックしてみましたが、登録した時の住所や電話番号が記憶とは違うらしく、問い合わせすら出来ません。

 致し方ないとあきらめかけていた、9月下旬になって、久しく来ていなかった背広の内ポケットから、くだんの手帳が見つかりましたが、喜んだのも束の間、今度は、パソコンのダイヤルアップがうまく接続しなくなって、インターネットにつながりません。
 
  そんなこんなで、あっという間に、選挙が終わって1ヶ月が過ぎてしまいましたが、10月初めに、18年ぶりに東京に転居したのを機会に、遅まきながら、あらためてブログを再開することにしました。

  選挙直後に書いたものに始まり、空白の1ヶ月余りの期間にメモしていたものも含めた、遡っての再開ですので、旧聞に属する話題もありますが、今後も新たな道を目指して歩み続けますので、引き続きよろしくお願いいたします。

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