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2011年5月

2011/05/31

宣教師の郷愁の産物

 大館と大曲での講演の後、東北の応援を兼ねてとい
う口実で、角館の温泉に2泊しました。

 今こそ、東北に来てほしいとの、何人かの方の声を
受けて、泊まった宿は、その名も「都わすれ」、都ど
ころか、角館の街も忘れられる山の中にあります。

 運転をして下さった方は、道が悪いのでと言われま
すが、高知県の山道を体験した者には何のその、むし
ろ懐かしさがこみ上げる、ガタガタ道を進みます。

 もともと、保養所か何かだった所を、買い取られた
とのことで、乳頭温泉や田沢湖でも、同じ様な、癒し
の宿を経営されているおかみさんの、思いが反映され
た宿でした。

 そこから出かけた、角館の武家屋敷は、3月末にう
かがった新潟の村上市の、ひなびた趣きを残した、町
屋や武家屋敷とは違って、すでに、洗練された観光地
になっています。

 その武家屋敷の一つを、ご当主の案内で拝見しまし
たが、もともとは、武田家の武器づくりを担当してい
たお家柄で、4百年程前に茨城に移り、そこで佐竹家
に出会って角館まで来たとのことで、資料の数々も豊
富です。

 その中に、江戸時代の物の流れや、人の交流の盛ん
さを感じさせるものが、幾つかありました。

 その一つは、押し絵で、人の顔や花鳥風月の柄に、
綿で立体感をつけて、きれいな布で仕上げるという細
工物です。

 それを見ていて、どこかで見たことがあるなあと思
ったのですが、昔羽子板の表に張ってあった、役者絵
などと同じものです。

 お話を聞くと、この押し絵は、武家の手内職だった
そうですが、これが江戸に届けられて、羽子板などに
張る素材として使われたということでした。

 ということは、その押し絵を発注したり、買い取っ
たり、さらには、それを江戸に送って、羽子板職人に
届けるという、ビジネスのコーディネートをしていた
商人がいたわけで、江戸のビジネスは、なかなか広域
的だなあと感心します。

 また、人の交流で言えば、秋田には鉱山が数多くあ
って、江戸の昔から鉱業が盛んでしたが、精錬の技術
が未熟だったため、銅のインゴットを作っても、銀の
粉が混じってしまいました。

 そこで、精錬技術の先生として呼ばれたのが、讃岐
の人、平賀源内ですが、彼は絵も上手だったため、藩
内の絵師、小田野直武に、オランダの絵画の技法を教
えました。

 これがきっかけで、源内は、友人の杉田玄白に小田
野直武を紹介するのですが、その縁で、杉田玄白が、
ターフェルアナトミアを翻訳した、解体新書を著した
時に、その本につける解剖の図を、小田野直武が描く
ことになりました。

 これも、江戸時代の、人材交流の活発さを教えるエ
ピソードですが、人と物の交流と言えば、もう一つ、
面白い話がありました。

 それは、キリスト教の伝来に伴う話ですが、秋田の
藩内で、布教活動をしていたイタリア人の宣教師が、
故郷恋しさのあまり、スパゲティーを食べたくなった
のですが、どうしても、スパゲティーに似た麺類が手
に入りません。

 そこで、地元の人に、スパゲティーとはこういうも
のだと教えた上で、似せて作ってもらったのが、日本
三大うどんの一つ、稲庭うどんだと言うのです。

 キリシタン弾圧の時代背景と見比べて、時世が整合
するかなと、眉に唾をぬりかけましたが、十数代も続
くご旧家のご当主のお話ですので、素直に信じること
にました。

 すると、このお家の歴代のお嫁さんの中にも、キリ
シタンの女性が二人いて、結婚にあたっては、それぞ
れ、藩の許しを得ていたとのことでしたので、多分、
色んな工作もあったのだろうと、往時のことを偲びま
した。


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十把一絡げと力量の差

 大館の翌日は、同じ秋田県内の大曲で、震災をテー
マに講演をしましたが、地元の方からも、震災に関し
て様々な声を聞きました。

 講演を終えてからのことですが、一人の男性が、毎
日毎日、被災地のニュースが流れるのはやむを得ない
し、被災地のことを忘れないためにも、大切なことだ
と思うが、もう少し、扱い方を考えてもらえないか、
さもないと、東北全体が、被害を受けているように受
けとめられて、東北に来るお客さんも、来なくなると
言われます。

 確かに、その翌日、角館市内の、古いお醤油屋さん
をお訪ねした時にも、ご主人から、同じような悩みを
うかがいました。

 それは、しばらく前のことだそうですが、お店に電
話がかかったので出てみると、電話口から、「あっ、
かかったぞ」という声が、聞こえてきます。

 そこでご、ご主人が、「こちらは、電話は一度も切
れてないんです」と答えますと、「そうですか、とこ
ろで、営業はしてるんですか」と、追い打ちの質問が
きました。

 もちろん、「営業も、一日も休まずに続けておりま
す」と、答えたということですが、ことほど左様に、
東北全体が十把一絡げに、被災をしたと受けとめられ
ていると、嘆いておられました。

 確かに、全国の人は、東北全体を一絡げに、外国の
人は、日本全体を一絡げにしている傾向があって、被
災された方々への支援と、周辺への配慮の機微の難し
さが、あらためて感じられました。

 一方、同じ大曲の会場でお話をした方は、三陸から
福島までの被災地を、炊き出しなどの、ボランティア
でまわったと言われますので、全体を見比べての感想
をうかがってみました。

 すると、自治体によって、かなりの力量の差が出て
きていて、対応の悪い自治体では、被災者の間に、不
満がつのってきていると言われます。

 ある市では、市長のリーダーシップの下、避難所の
数も絞り込んで、支援物資が、過不足なく配られる体
制がとられているのに、いまだに、支援物資を配るシ
ステムも、うまく出来ていない自治体があるとの感想
です。

 また、避難所には入らず、かろうじて残った住宅に
暮らす、被災者の方々に、支援の手が差し伸べられて
いないため、ボランティアが避難所に行って、支援物
資を分けてくれと頼みに行くが、こうした実態に、役
所の職員が全く対応をしない自治体もあると、疑問を
呈されていました。

 確かに、自治体の職員が亡くなったり、庁舎が被害
を受けたりと、パワーダウンを余儀なくされている、
自治体があることも事実ですが、首長のリーダーシッ
プで、被災者への対応がどう違うかは、そろそろ検証
がなされて、いい時期なのかもしれません。

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ハチ公の故郷

 5月中旬、忠犬ハチ公の故郷、秋田県の大館市を訪
ねて、大館駅前の、ハチ公の銅像を見てきました。

 大館での講演は、一度は、3月の中旬に予定されて
いたものが、、大震災の影響で、この日に延期された
のですが 大館は、あの忠犬ハチ公の、生まれ故郷で
すので、話のネタにと、ハチ公のエピソードを、イン
ターネットで探してみました。

 すると、出るは出るは、ハチ公のエピソードは、数
限りなく出てきます。

 生まれたのは、国連で事務局次長を務められた、明
石康さんのお母さまの実家、生まれて2ヶ月で、大館
駅から米俵に入れられて、急行列車の貨物で、東京に
送られたなど、由緒ある出生のいわれから、話は始ま
ります。

 ハチ公は、飼い主の東大教授が亡くなった後も、毎
日夕方近くになると家を出て、渋谷の駅前で、1~2
時間、今は亡き主の帰りを待ったという美談で、一躍
有名になりましたが、あれは、主人を迎えに行ってい
たわけではなくて、渋谷駅近くの餃子屋で、客が分け
てくれる餃子ほしさに、毎日出かけていたのだといっ
た、美談に水を差す反論も出てきます。

 また、故郷の大館の駅前にある、若き日の銅像は、
両耳がピンと立っているが、渋谷の銅像は、左の耳が
垂れている、これは、晩年皮膚病を患ったためだとい
った、健康に関する解説もありました。

 どうして、そんな病気のことまで分かるのだろうか
と、調べてみますと、ハチ公の遺体は、そのまま、上
野の国立博物館に運ばれて、はく製にされた上、内臓
はホルマリン漬けにして、保存されていることがわか
りました。

 なんと、この保存された内臓を使って、死因を確か
めた研究者もいて、その研究結果が、この3月に発表
されていました。

 それによりますと、従来ハチ公の死因は、寄生虫の
フィラリアのためとされていましたが、今回の研究の
結果、肺に出来たガンが、心臓に転移したのが原因で
はないかとの、新説が明らかになったとのことで、ハ
チ公物語は、今の時代にも続いていました。

 そんな訳で、「忠犬ハチ公と日本の心」といった演
題でも、小一時間の講演が出来るくらいの、ネタが見
つかりましたが、せっかく大館に来ましたので、講演
を前にした朝、ホテル近くの大館駅に足を運んで、若
き日のハチ公の、両耳を立てた雄姿を見てきました。

 その帰り道、ハチ公の後輩たちにも、挨拶をしてい
こうと、大館市内にある秋田犬会館を訪ねますと、外
の犬舎にいる2匹の犬は、いずれもごろりとお昼寝の
最中です。

 中でも、今年3歳というメスのシロちゃんは、声を
かけても、ワンともスンとも言わない、ふて寝の状態
でしたので、ふて寝中のお嬢様の姿を、デジカメに納
めておきました。


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2011/05/30

猿の惑星を彷彿とさせる光景

 5月の第三週に、初めて、宮城県内の被災地に出か
けました。

 といっても、仙台と、石巻のごく一部ですが、震災
の発生以来、まだ一度も現地を見ていませんでしたの
で、ひと目見ておかないとと思ったのです。

 新幹線で仙台駅を降りますと、その周辺は、ほとん
ど、いつもと変わらない賑わいで、被災した都市とい
う印象ではありません。

 ところが、仙台空港などのある海側は、一帯が津波
にのまれていて、以前がどういう場所だったのか、外
から来た者には、想像もつかない状態です。

 がれきの後片づけが終わったと思われる、広大な被
災地に立ちますと、表現は悪いですが、大規模な工業
団地のための、造成予定地に立っているような、錯覚
さえ覚えます。

 過去のことを、全て忘れて不問に付すことを、水に
流すと言いますが、こうした現場を見ますと、水に流
すという言葉の意味が、実にリアルに迫ってきます。

 また、石巻では、石ノ森章太郎さんの、記念館の周
辺を見てまわりましたが、津波に襲われた沿岸部のす
ぐそばには、残された住宅に、被災者の方々が暮らす
地区があって、聞き取りをする時間はありませんでし
たが、避難所とは異なる問題が、推察できました。

 その先に行きますと、公園があったという場所に、
がれきと土砂の中に立つ、自由の女神の大きな像があ
ります。

 事前の調べをしていませんでしたので、大変失礼な
がら最初は、どこかの、モーテルの屋上にでもあった
ものが、流されて来たのかと思いました。

 後で調べてみると、公園の中に立っていたもので、
沖を行く船の安全と、市民の健康を願って建てられた
ものだったそうです。

 自衛隊の部隊が活動をする、遮るもののない被災地
の中に、忽然と立つ自由の女神は、映画「猿の惑星」
のラストに出てきた、海辺の砂浜のシーンを思い起こ
させて、妙に暗示的でした。


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上手より丈夫

 連休明けに、東京で、ある俳優さんとお食事をしな
がら、あれやこれやのお話を聞きました。

 一つは、高倉健さんのことで、健さんには、私にな
る時間がなくて、365日、24時間、高倉健を貫い
ているので、さぞ大変だろうと言われます。

 それでも、オフの時には、アメリカに行ったりされ
るのですが、その時も、あのトレードマークの角刈り
を変えないように、東京のあるホテルに店を構える、
行きつけの床屋さんを、アメリカまで呼ぶのだそうで
す。

 若手の役者で、高い評価を得ていたのは、勘太郎さ
んと七之助さんの兄弟で、芸への打ち込み方が、他の
若手とは違うので、舞台を見ていても、どーっと伝わ
ってくるものがあると、べたほめです。

 海老蔵さんがいないうちに、良い若手がどんどん出
てきた、とも言われていました。

 一方、昔の役者さんでは、森繁久弥さんや三木のり
平さんが、一向にセリフを覚えなかったという、思い
出話がありました。

 森繁さんの場合は、初日からしばらくの間は、舞台
の袖にいる人が、セリフを読むのですが、声が小さく
て聞こえないと、舞台の袖に近づいて、「もっと、大
きい声で言え」と、言っていたそうです。

 毎回この調子で、セリフを覚えるのはいつも、公演
が半ばを過ぎてからだったそうですが、それでも、観
客を泣かせていたからすごいと、この方は賞賛されて
いました。

 もう一人、セリフを全く覚えない、三木のり平さん
は、小道具の扇子や手拭いなどに、セリフを細かく書
き込んでいたそうです。

 ある時、舞台で共演した、先代の勘三郎さんが、意
地悪をして、扇子を取り上げて、舞台の袖に逃げ込ん
でしまいました。

 この時は、あわてたのり平さんが、勘三郎さんを追
いかけて、扇子を取り返したそうですが、別の日に、
勘三郎さんが、また扇子を取りあげて、舞台の袖に駆
け込みました。

 勘三郎さんが、のり平さんが追いかけてくるのを、
待っていますと、のり平さんはおもむろに、懐からも
う一本の扇子を取り出したため、客席は大爆笑に包ま
れたと言います。

 また、若い頃つき合いのあった、勝新太郎さんは、
三味線の杵屋一門のお師匠さんとして、熱海の芸者さ
んに稽古をつけていましたが、稽古の前には赤坂に出
かけて、三味線の名手のお姉さんから、三味線を教わ
った上で、翌日熱海に出かけていたそうです。

 これらのエピソードからも、ご推察の通り、この方
は、かなり年配の方ですが、全く年齢を感じさせない
若さで、自ら、「昔から、役者は上手よりも丈夫」と
言われてるんですよと、笑われていました。 

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テレビ画面を激写

 5月の連休中にあった、英国のウィリアム王子の結
婚式を、テレビで見ながら、思わず、画面にデジカメ
を向けていました。

 特に、見たかった訳でもないのですが、CNNが、
総力をあげ取材していましたので、結局は、結婚式の
様子を、最初から最後まで見てしまいました。

 そうしているうちに、気づいてみると、デジカメを
取り出して、テレビの画面を、アップで映しまくって
いる自分がいます。

 教会に入るケイトさんの後ろを行く、妹さんの、美
しいラインの後ろ姿をパチリ、指輪をはめる場面でパ
チリと、どんどん枚数がかさみます。

 難しいのは、馬車での移動で、動いているものをズ
ームで撮る時には、少し早目に、シャッターを切らな
いといけません。

 といったわけで、うまく撮れると、思わず自画自賛
する、にわかカメラファンのおじさんに、なりきって
いました。

 ハイライトのキスシーンは、1回目は、バルコニー
にあがって間もなく、2回目は、空軍のデモフライト
と重なる、難しいタイミングでしたが、これもどうに
かこなして、大満足の撮影会になりました。

 とは言え、時には、レポーターのコメントにも、耳
を傾けますと、なかなか良い話を紹介しています。

 それは、第一次大戦の当時の話で、皇太子だった、
後のエドワード8世が、志願したものの、前線に行か
せてもらえません。

 このため、皇太子は、自分は死ぬのは恐くないし、
自分が死んでも世継になる弟がいる、それなのに、な
ぜ前線に行かせてもらえないのかと、参謀総長に詰め
寄ったのですが、それに対する、参謀総長の答えが秀
逸でした。

 それは、「貴方が、戦場で戦死されるのは、まった
く構わない、しかし、貴方が捕虜になったらどうしま
すか」というもので、敵国から、取引材料に使われる
ことに、配慮が必要だとの戒めでした。

 そんなコメントを聞きながら、おー、良い話ではな
いかと、メモを取りながら、またデジカメを構えてい
ました。

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菅直っとらん

 5月の初め、震災の後、官邸から相談を受けたとい
う方から、菅さんらしい雰囲気の伝わる、やり取りを
うかがいました。

 この方は、菅さんに呼ばれて、原発のことや、被災
地の復興のことなど、幅広く提案されたそうですが、
その後の菅さんの言動を見ていますと、そうした方々
のアイディアを、片端から取り入れている節が垣間見
えます。

 この方の提案の一つは、アメリカが言う、コンクリ
ートで原発を固める石棺方式や、水を使った水棺方式
に代わる、原発の封印方法ですが、菅さんは早速、そ
の技術を持つ企業の、電話番号をメモして、見積もり
を気にしていたと言います。

 この他にも、被災地の復興の仕方や、それに向けた
財源の調達方法に関して、進言をされたそうですが、
菅さんからは、是非中に入ってくれないかとの、呼び
かけもあったそうです。


 それに対して、この方が、外にいるから自由に提言
が出来るので、中に入って、あれこれ言われるのでは
かなわないと答えますと、菅さんは、「それもそうで
すね」と、あっさりと引き下がって、引き留めの言葉
は、ひと言も発しませんでした。

 菅さんらしいと言えば、菅さんらしい雰囲気の伝わ
る話ですが、この方の、総理に対する、ジョークをま
じえた総括は、「菅直っとらん」でした。


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2011/05/29

エレクトリック・シェアリング

 宮崎から帰って、山梨県の甲府市で講演をした時、
主催者の方との会話の中で、今年の夏の暑さが話題に
なりました。

 この講演会は、地元の新聞社の主催ですが、当日の
担当者の方は、気象予報士の資格も持っていると言わ
れます。

 そこで、今年の夏の暑さは、去年に比べてどうだろ
うかと、予想を聞いてみました。

 すると、今年は、去年ほどは暑くはないけれど、そ
のかわり、6月くらいから、暑さが始まるだろうと言
われます。

 ただ、これと節電が重なった時、高齢者が次々と、
熱中症で倒れはしないかと心配されていました。

 そこでと、この方が提案された言葉が、エレクトリ
ック・シェアリングでした。

 つまり、暑さに強い人や強い企業は、これまで以上
に節電をして、弱い立場の人に電気を分ける、エレク
トリック・シェアリングの考え方が必要だというので
す。

 なるほどと思いながら、合わせて、サマータイムに
ついてもうかがいますと、電力使用のピーク時は、午
後の2時から3時なので、朝と夕方の時間をずらすサ
マータイムは、節電とは関係がない、節電と省エネを
はき違えてはいけないと、これまた、至極ごもっとも
なご意見が返ってきました。

 加えて、サマータイムは、緯度の高い国々で、夕方
からの時間を有効に使おうと始まったものなので、緯
度が比較的低いわが国で、どれだけのメリットがある
かは疑問だ、とのご指摘もありました。

 その点は、また勉強してみたいと思いますが、最近
は、意外なところにも、気象予報士の方がおられるも
のです。

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昔の記憶はくっきりと

 4月末、宮崎にいる妻の母のもとを訪ねて、時には
ぼんやりとした、時にははっきりとした会話を楽しみ
ました。

 このブログでも、何度か紹介している義母は、今年
3月に、満88歳の米寿を迎えましたが、直近の記憶
を別にすれば、口も頭も元気そのものです。

 宮崎市内の、古い木造平屋の借家に、独り住まいの
母は、小さな庭に育てた、色とりどりの花を見るのが
楽しみです。

 お隣との塀沿いに枝を張る、ツツジも、きれいな花
を咲かせていましたが、あのツツジは、京都から持っ
てきたと、思い出話が始まります。

 というのも、母は、12年前まで、京都で暮らして
いたからですが、当時、ご近所の、知り合いのおばさ
んと散歩に出かけた途中、ツツジの枝を3本折り取っ
て、庭にさしました。

 その1本が根づいたため、宮崎に戻るにあたって、
その根を抜いて、土をつけて持ち帰りました。

 それが、12年経って、こんなに立派に育ったと、
嬉しそうに話してくれるのです。

 そうしているうちに、さらに昔の記憶がよみがえる
のでしょう、次第に話は、生まれ故郷の都城での、娘
時代の話にさかのぼりました。

 例えば、お隣に、兄弟仲の悪い家があって、お酒を
飲んでは喧嘩をするので、困ったおばさんが、うちの
爺ちゃんのところに、仲裁をしてくれと飛び込んでき
た、といった話。

 また、一生懸命貯金をして、17円たまったので、
歯医者に行ったところ、15円で金歯を入れてくれた
など、歴史的な物価の話も出てきます。

 昨日、福祉のお弁当が来たかどうかの記憶は、定か
ではなくても、70年余り前のことは、くっきりと思
い出す、人間とは、つくづく不思議な存在だと思いま
した。

 この後、僕が、母の相手をしているうちに、隣りの
部屋の片づけをしてくれていた妻が、ああくたびれた
と、投げ出した足を揉んでいますと、そんなものは、
トンカチで叩きなさいと、元気な叱咤が飛びます。

 部屋を片づけてくれた恩人に、何を言うのと応戦し
た妻が、ところで、今何時なのと問いますと、義母か
らは、「昨日の今頃の時間よ」と、見事な答えが返っ
てきました。

 そんなやり取りを聞いていて、ますます、人間の脳
の中身を、探ってみたくなりました。

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認定するのはお客様

 農業分野の新しいビジネス提案を競い合う、A-1
(エーワン)グランプリの、大阪・北陸地区大会で、
審査員を務めました。

 このコンテストは、全国5か所で、地区大会が開か
れますので、大阪・北陸地区大会は、九州・中国・四
国地区に続いて、2つ目の地区大会になります。

 この日、僕と並んで審査員を務めた方の中には、農
業者がお二人いました。

 そのお一人は、鹿児島県を拠点に、青汁用のケール
や、焼酎用のサツマイモ、さらには、ポテトチップ用
のジャガイモなどを、それぞれのメーカー向けに作ら
れています。

 これまでの農業は、生産物を、市場に出してから値
が決まるため、作ったものが幾らになるのか分からな
いという、いわば博打のような仕事でした。

 これを、企業と取引きすることで、博打型の農業か
ら脱したのが、この方のビジネスモデルです。

 もうお一人は、神奈川県内で、養豚を営む青年です
が、生産と出荷で終わる農業ではなく、消費までをプ
ロデュースする農業を目指しています。

 具体的にはバーベキュー用の豚肉を、消費者に届け
るというビジネスモデルで、親から受け継いだ700
頭という頭数を、規模拡大するのではなく、家族で食
べていける養豚が目標です。

 あわせて、農家の跡取りが集う、「農家のこせがれ
ネットワーク」という、NPO法人を作っていて、格
好良く、感動があって、稼げる、新時代の3K農業を
目指しています。

 このお二人に会えたのも、収穫でしたが、この日耳
にした、日本農業の問題点に関わる数々の発言も、頭
に残りました。

 そもそも、産業であれば、農業者が自ら考えて、ビ
ジネスモデルを作らないといけないのに、現実は、役
所とJAがセットした政策を、受け込んでいるだけな
ので、これでは、産業とは言えないという指摘に始ま
ります。

 また、「就農」、「担い手」、「認定農業者」とい
った言葉を取りあげて、他の産業に、こんな表現があ
るだろうかという、話もありました。

 そう言われてみれば、他の産業には、認定商業者も
認定工業者もありません。

 本来、農産者を認定してくれるのは、消費者のはず
ですが、それを、役所が認定するといった、上から目
線の国の姿勢が、農業を駄目にして元凶だというわけ
です。

 この他、農業をやりたい人が、やろうと思ってもや
れなくしている、農地法の問題を、取り上げる声もあ
りました。

 いずれも、従来から、自分の思っていたことばかり
で、一々ごもっともとうなずきながら聞きましたが、
こうしたコンテストを通じて、現在の仕組みに、少し
でも、風穴が開けられればと思います。


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3年後まで生きてますか

 99歳の現役として、全国各地に講演に出かけられ
ている、東京の聖路加病院名誉院長の、日野原重明さ
んにお会いして、講演のコツをうかがいました。

 日野原先生は、今年10月で、満百歳を迎えられま
すが、「新老人の会」という、75歳にして初めて会
員になれるという、長寿社会を象徴するような会の代
表として、今も全国を回って、講演活動に努められて
います。

 僕とは、高知出身のジョン万次郎が結ぶ縁で、先生
が、ジョン万次郎を顕彰する事業に、熱心に取り組ん
で下さったことから、知事時代に、先生との知己を得
ました。

 東京の事務所をお訪ねしますと、相変わらずのお元
気さで、去年は、千人以上が集まる講演会を31回、
小さい会は数知れないと、こともなげに言われます。

 そこで、せっかくですので、講演のコツをうかがい
ますと、最初の5分間で、会場がどっと沸くような話
が出来るかどうか、要するに、出だしのつかみが大切
ですとおっしゃいます。

 99歳にして、つかみを心がけているとは、やはり
ただ者ではないと思いましたが、ついでに、得意のつ
かみは、どんなネタかと聞いてみました。

 すると、先生は99歳にして、向こう3年間の、講
演の予定を入れていますので、講演の話し始めに、ま
ずそのことを紹介するのだそうです。

 その上で、会場のお年寄りに対して、「ご当地に次
に来るのは3年後です、私は、3年後も元気にここに
来てお話をしますが、会場の皆さんは、3年後まで生
きてますか」と問いかけると、どっと笑いが起きるん
だと言われます。

 さすが、ベテランの持ちネタは、命がけで、30年
以上も若輩の僕では、とてもパクリようがないと諦め
ました。

 先生は、こうして、新老人のお年寄りを相手に、第
3第4の人生を問いかけると同時に、小学生には、命
の大切さを話されているとのことでしたが、10年後
の、百十歳をゴールに考えているとうかがいますと、
ただただ頭が下がると言うか、気が遠くなりました。

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