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2011年9月

2011/09/02

モンロー神社に参拝

 信州での夏の終わりがけ、先輩の建築家の家を訪ね
ますと、部屋の一角に、マリリン・モンローをまつっ
た、私設の神社がありました。

 前からお誘いを受けていたのですが、さすが建築家
の家だけあって、渋い色合いの木材と大きなガラス窓
が特徴の、シックなおうちです。

 中に入って、ゆったりとした居間で、コーヒーをい
ただいていますと、ワイドなガラス窓の方で、ドンと
いう大きな音がしました。

 何だろうと思って、窓の外をのぞくと、勢いよく飛
んできた小鳥が、ガラスがあるのに気づかずに窓にぶ
つかって、外のベランダに倒れていました。

 お茶の後、部屋の中を案内していただくと、直径が
3~4センチほどの、中をくり抜いた木で作った、模
型の街があります。

 一つ一つに、窓にあたる小さな穴があけてあって、
中から照らす電球で、ビルの明かりを演出しているの
ですが、その木の一つを持ち上げて中をのぞいて見ま
すと、実にきれいに削られています。

 そこで、製作者である家の主に、どうやって削った
のかと尋ねてみますと、友人の歯科医が、歯を削る時
に使う研磨機で磨き上げてくれたとのことで、その研
磨機は、その後は、治療には使われていないのだろう
なと、ちょっと心配になりました。

 続いて、奥の書斎を見せてもらうと、壁際の棚の上
に、風にスカートをまきあげられた、映画の有名なシ
ーンをかたどった、マリリン・モンローの像が置かれ
ています。

 その上、その下の棚には、小さな賽銭箱が置いてあ
りますので、これは何かと聞くと、マリリン・モンロ
ーをまつった、モンロー神社だと言います。

 「実は、ここにご神体があってね」と、先輩が持ち
出してきたのは、モンローの、胸のレントゲン写真の
コピーでした。

 先輩の知人が、オークションで2万ドルで落札した
ものを、コピーさせてもらったとのことでしたが、よ
く見ると、両胸の脇が微妙にふくらんでいて、さすが
モンローともなると、レントゲンにも乳房の輪郭が写
るのだろうかと、ご神体の丸味を横目に見ながら、有
難く参拝を済ませました。

 ただ、このご神体も、先輩の奥様には、あまり評判
がよろしくないようで、数分のご開帳を終えると、再
び、棚の中にしまい込まれてしまいました。

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虎の威を借る人々

 島田紳助さんが、暴力団との関係を理由に、芸能界
を引退するとのニュースを見ていて、小沢一郎さんの
献金問題との、ある種の共通点を感じました。

 その共通点を、ひと言で言い表せば、「虎の威を借
る」という言葉になるのですが、今回の件で紳助さん
は、友人を介してメールを送った他は、4~5回ほど
会っただけで、やましいことは一切ないと言っていま
す。

 一方、事務所を通じて、ゼネコン企業から多額の資
金提供を受けていた小沢一郎さんも、記載漏れのよう
な形式的な間違いを別にすれば、法律に触れるような
ことは断じてないと明言しています。

 それぞれの発言は、その通りかもしれませんが、た
とえそうであっても、関係を作った側にとっては、十
分な効果が期待出来る点が、僕が、二つのケースの共
通点として感じたことでした。

 まず、紳助さんの苦境を助けて恩を売った人は、別
に紳介さんからお金をもらったり、直接会って何かを
してもらう必要はありません。

 そんなことをしなくても、時代の寵児と言える人気
者と、心が通じ合っているという関係を作ることが、
陰に陽に大きな力になるのです。

 それは、仲間うちで、あいつと知り合いだと“どや
顔”が出来るとか、知人を通じて、手に入りにくいチ
ケットが入手出来るなど、様々なことが考えられます
が、第三者を通じてでも、芸能界の実力者に声が届く
という関係は、その筋の人にとっては、願ってもない
関係になります。

 逆に、たびたび食事を一緒にすることで、世間にそ
の関係がわかるようでは、つき合いが長続きしません
から困るのです。

 同様に、有力な政治家に資金を提供するゼネコン企
業も、その見返りに直接便宜を図ってもらえば、法律
に触れかねませんので、これもまた困るのです。

 そうではなく、多額の資金を出しているだけで、仲
間うちでは、関係を見せつけることになったり、次の
仕事を取るための暗黙の営業になったりと、何らかの
作用を果たしていることが想像できます。

 さもなければ、営利を目的とする企業が、政治家に
資金を提供するわけがありません。

 このように考えてみると、紳助さんと小沢さん、虎
の威を借る人たちとの関係で、どこか構図が似ている
ように思えてくるのです。

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おでこの傷の思い出

 夏を過ごした山荘に、父母の代からの、懐かしい家
具が届けられました。

 届いたのは、ソファーと大きな飾り棚ですが、いず
れも、僕が物心ついた頃からわが家にあった、時代物
ばかりです。

 とはいえ、ソファーは、兄が引き継いだ時に、布の
張替えをしていますので、新品のような張りがあるの
ですが、そのソファーを見ると、思い出すことがあり
ます。

 それは、まだ、小学校に上がる前のことだったと思
いますが、このソファーのバネが楽しくて、上に乗っ
てピョンピョンと跳びはねているうちに、ソファーか
ら落ちて、低いテーブルの角に、おでこを打ちつけた
のです。

 このため、病院で手当を受けることになって、翌日
から予定していた家族旅行はキャンセルに、それを楽
しみにしていた兄には、「大二郎がドジをするから、
行けなくなった」と、ぼやかれたものでした。

 もう一つの飾り棚も、父母の代からの家具ですが、
一時は、部屋の片隅で、脇役にまわっていた時期もあ
りましたので、わが山荘では、少し目につくところに
置いてあげました。

 兄嫁が暮らすマンションには、この他にも、昔の食
堂のテーブルや椅子など、思い出の詰まったお道具の
数々がありますので、姉からは、「もう少し持ってい
かない?」と、水を向けられています。

 ただ、文字通り、こちらのお家の事情もあって、そ
うもいかないのですが、久々に、子供時代のソファー
に座ってみますと、おでこの傷の思い出とともに、懐
かしさが込み上げてきました。

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人気の秘密

 信州に滞在していた間に、美術関係の仕事をされて
いる方のお宅を訪ねて、あれこれと、画壇の話題をう
かがいました。

 その中で、今も大変な人気だと話題になったのは、
没後25年を過ぎた鴨居玲です。

 僕にとっては、ご本人よりも、下着デザイナーだっ
たお姉さまの、洋子さんの方がなじみがありますが、
鴨居玲と言えば、人間の内面を見つめた、独特の画風
で知られています。

 もともとは、生まれ育った金沢の美術専門学校で師
事した、宮本三郎の影響を受けていましたが、40歳
の時に、若手の洋画家の登竜門とされる、昭和会賞と
安井賞を受賞したのをきっかけに、自分流の絵を描く
ようになります。

 その意味では、自宅で急逝した57歳までの、わず
か17年間が、独自の鴨居玲を創りあげた期間という
ことになります。

 ところが、亡くなってから何年が経っても、彼の人
気は衰えることがありません。

 この家のご主人によると、梅原龍三郎でも安井曽太
郎でも、没後何十年というタイミングで回顧展を開い
たら、後はしばらくはないけれど、鴨居玲の場合は、
5年ごとに回顧展が開催されているといいます。

 しばらく前の話ですが、この方が、ある地方で美術
に関する講演をされた時、梅原の話をしても、会場は
あまり盛り上がらないのに、鴨居の話になると会場の
反応が変わりました。

 講演の後、中年の女性が、「鴨居玲が大好きなんで
す」と話しかけてきますので、失礼ながらこんなおば
様までと、感心させられたそうです。

 こうしたことから、4年後の没後30年の回顧展に
も、すでに全国の4つの美術館が、手をあげていると
のことで、鴨居玲の人気は、当分衰える兆しがありま
せん。

 明るさと暗さに分ければ、自殺などをテーマにした
暗い絵の画家ですが、時代の流れそのものに不安を感
じる人が多い中、鴨居の絵が受けるのではないかとの
結論になりました。

 後日、スタジオ・ジブリを取り上げた、テレビの番
組を見ていますと、宮崎駿さんが、「みんなが浮かれ
ていた時に危ないぞと言えば、ファンタジーになる、
それが、風の谷のナウシカだった。しかし、みんなが
駄目だと思っている時代に、何を作ればいいか、ファ
ンタジーが難しい時代になっている」と、語られてい
ました。

 それを聞いていて、逆の意味で、鴨居玲が描く、暗
いファンタジーの人気と、相通じるものがあるのかな
と思いました。 

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先輩方とご一緒に

 ひと夏を過ごした、信州の別荘地には、夏の間、地
域内限定の無料バスが走っています。

 このバスは、車を持ち合わせないわが夫婦にとって
は、野菜や日用品を買うには欠かせない足ですので、
何度も利用しましたが、ご一緒するのは大概、人生の
先輩にあたる方々です。

 ある日、近くの農家のご夫妻が、テントで売ってい
る野菜を買い込んで、バス停に立っていますと、おじ
いちゃんが早足でやってきて、「バスはまだ来てませ
んよね」と尋ねらます。

 「ええ、まだですよ」までで、止めればよかったの
ですが、続けて、「ダイヤの時刻前に来ることはない
ですから」と付け加えたため、「いや、そんなことは
ありません、今年はもう2度も、時刻前に行っちゃい
ましたしね、この間なんか、待ってたのに、通り過ぎ
て行っちゃったんですから」と、不満やるかたないご
様子です。

 と語り合ううちに、無事時刻通りにバスが到着、お
じいちゃんと一緒に乗り込みました。

 別の日、同じバス停に立っていますと、今度は、二
人連れのおばあちゃんから声をかけられました。

 一人は東京の世田谷にお住まい、もう一人は名古屋
の方で、女学校時代の同級生だと言われます。

 名古屋の方がお持ちの別荘に、世田谷のおばあちゃ
んをお招きしたそうですが、再会は十年ぶりで、問わ
ず語りに、お年は87歳だと教えてくれます。

 杖をついて歩く、世田谷のおばあちゃんを指しなが
ら、この人は、毎朝3千歩は散歩をするし、パソコン
でも携帯でも何でも出来るのに、私は何も出来なくて
と、名古屋のおばあちゃんは謙遜気味です。

 バスに乗ってからも、戦前戦後の昔話をうかがいま
したが、そうこうするうちに、そう言えば貴方は元の
総理のと、思い出したように言われます。

 そうですよと申し上げますと、「やっぱりそうだっ
た、このぼけた頭に、記憶をよみがえらせて下さって
有難う」と、変わった感謝のされ方をしました。

 また日がかわって、今度は、毎年7月から9月まで
の3ヶ月間、別荘で過ごしているというおばあちゃん
に会いました。

 その方の話によると、今は多くても10人ほどしか
乗っていないこのバスも、以前は、いつも満員だった
とのことで、乗客が減った理由に関しても、お年寄り
が大勢亡くなったからじゃないですかと、自説を披露
して下さいます。

 ただ、後で地元のタクシーの運転手さんに話を聞き
ますと、昔は別荘の管理会社が、自前のマイクロバス
を使って運行していたものを、最近はバス会社に運行
を委託をしたため、大き目のバスに変わったとのこと
で、お年寄り死亡説よりも、こちらの原因の方が、ウ
ェイトが大きいかなと思いました。

 山道を走るバスの中での、先輩方との会話は、都会
では味わえない楽しみでした。

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山間を吹き抜ける風

 8月は、しばらくの間、信州の山にこもっていまし
たが、山には山の風が吹いていました。

 車のないわが夫婦は、ある日、バスに乗って少し山
を下りました。

 降り立った停留所の近くに、小さな滝がありました
ので、その滝を見た後、すぐそばにあるホテルで、温
泉につかろうということになりました。

 ところが、人気のないロビーで、一人留守番役をす
る男性に声をかけますと、タオルの貸し出しはしてい
ませんと、にべもありません。

 少し粘れば、タオルの一つくらい出てきたでしょう
が、商売っ気のない人とやりあっても仕方ありません
し、お茶をするところも見当たりませんので、ロビー
で、新聞を読むことにしました。

 ところが、新聞がどこにあるのかわかりません。

 ロビーの中をくるくると見渡すうち、ようやく、薄
暗がりの壁際に、新聞のラックを見つけましたが、気
がついてみると、室内全体の照明が落とされていて暗
い上、お土産品のコーナーには、売り手も買い手も、
人っ子一人いません。

 「うーむ、これで大丈夫か」と、余計な心配をしつ
つ新聞を読み終えると、ホテルを出てバス停の近くに
戻りました。

 そこで、今度こそお茶をとあたりを見まわしたので
すが、喫茶店らしき姿が見当たらないため、表の看板
に蕎麦処と喫茶と書かれた、観光案内所に足を運びま
した。

 ところが、ここも人影はなく、ようやく奥から出て
きた女性に、お茶は飲めますかと尋ねますと、もう終
わりましたとの返事です。

 時計を見ますと、午後3時前ですので、ここでも、
内心「うーむ」と唸りながら、気をとり直して、「ど
こか近くにありますか」と聞きますと、「少し下った
ところにあります」と教えてくれました。

 地方の「少し」は、どれくらいの遠さかわからない
ぞと警戒しながら、山道を下っていきますと、確かに
少し下ったところに、喫茶店らしきものはありました
が、そこにかかっていたのは、白昼堂々の「準備中」
でした。

 やむなく、山道を戻って、観光案内所の前にあった
ベンチで、上りのバスを待ちましたが、案内所の奥に
ある建物は何だろうとのぞいてみますと、指圧・マッ
サージとあります。

 再び、ひときわ大きく「うーむ」と唸りながら、山
間を吹き抜ける風を、肌に感じていました。

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