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2012年2月

2012/02/23

電車と音の物語

 ある晩、食事を一緒にした方々から、電車と音にま
つわる、蘊蓄のあれこれを伺いました。

 まず初めに、高知にご縁のある方から指摘を受けた
のは、コンビニの、ファミリーマートに入る時に鳴る
音のことでした。

 高知市内には、今や、現存のチンチン電車では、日
本で最も古い歴史を持つようになった、土佐電鉄の路
面電車が走っていますが、この方によると、土佐電鉄
の電車が、停留所に近づく時になる警報音が、ファミ
リーマートの入店時と同じなのだそうです。

 このためこの方は、ファミマに入った時、一瞬反射
的に、電車が来たのかと錯覚したと言います。

 その話を聞いた、向かいの席の方が、電車の音と言
えば、踏切で鳴る、カンカンカンという音の警報器を
作っている会社は。一社独占だと知ってるかと問いか
けてきます。

 初めて聞く話でしたので、どうしてなのかと尋ねま
すと、「全国の人があの音に慣れているため、あの音
に関してはみんな寛容なのだけれど、ちょっと違う音
が鳴ると、それが不快な騒音に聞こえて、すごいクレ
ームが来るので、変えられないんだ」と、なかなか説
得力のある理由です。

 あわせて、この方が、電車の自動放送は、電車の上
り下りによって、男性と女性の声を使い分けているそ
うだと言いますと、先ほどのファミマの方が、「そう
そう、JRの山手線も、外回りと内回りで、男女の声
を分けているんだと説明してくれます。

 それを受けて、再びお向いさんからは、その声を吹
き込んでいる人が、一人に決まっているので、その人
が外国に行っている時に新しい駅が出来ると、外国ま
で追いかけて行って、録音を撮ってくるらしいと、蘊
蓄はさらに深まりました。
 
 どこまでが本当で、どこからが思い込みか、勘違い
かわかりませんでしたが、何の話題でも、ひとたび壺
にはまれば、話題はどこまでも広がるものだと感心し
ました。

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2012/02/21

妻へのプレゼント

 妻の誕生日にあわせて、比叡山から京都へと、一泊
の旅を楽しみました。

 お世話になった比叡山の僧坊は、前にも、このブロ
グで紹介した場所ですが、節分の日、一足先に出かけ
た妻を追って、僧坊を訪ねますと、節分のお勤めを終
えられた阿闍梨さまが、いつものように温かく迎えて
下さいました。

 翌日は、妻の60代最後の誕生日、朝6時からのお
加持を受けた後、阿闍梨さまの部屋に入りますと、今
度はハッピーバースデイの曲を流して、祝って下さい
ます。

 この日は、その後、湖西線と山陰線を乗り継いで、
何回か行ったことのある、嵐山の近くのお店で昼食を
取りました。

 カウンター席に座った妻が、「今日は49歳の誕生
日」と、20尾も鯖を読みますと、おまかせ下さいと
ばかりに、ヒラメの肝のフォアグラ風や、鍋に入った
酒粕で、さっと火を通していただくオコゼなど、この
お店ならではの、工夫を凝らした料理が次々と登場し
ます。

 後で数えてみたところ、カウンターの上に姿を見せ
た魚介は、タイやヒラメをはじめ、優に10種類を超
えていました。

 堪能とはまさにこのことで、すっかりお腹が満ち足
りた後、化野念仏寺から、祇王寺、常寂光寺と、嵯峨
野の界隈を巡り歩きました。

 祇王寺は、以前から好きな場所ですが、すっかり葉
を落としたモミジと、緑鮮やかな苔が対比した庭を見
ていますと、かつて清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王
が、その愛を失って、この地に庵を結んだといういわ
れが、胸にしみてきます。

 この後訪れた常寂光寺は、わが夫婦にとっては、格
別の思い出のあるお寺ですので、本堂の裏の縁側に腰
掛けて、30数年前のあの日に、しばし思いを馳せま
した。

 東京に戻った後、妻が旅の思い出を、ツイッターに
つぶやきますと、JR西日本の三都物語のウェブに、
このつぶやきが掲載されました。

 ツイッターを始めて、まだ日も浅い妻は、そのこと
を大層喜んでいましたが、これがまた、お金では買え
ない、妻への絶好のプレゼントになりました。

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2012/02/19

「精神」と「決意」の下で

 防衛大臣の、国会内ではコーヒーを飲まない、との
決意表明を見ていて、失礼ながら、笑いがこみあげて
きました。

 この問題は、参議院の予算委員会の審議中に、防衛
大臣が無断で委員会室を抜け出して、食堂でコーヒー
を飲んでいたという、珍事が発端でした。

 後日、野党議員から質問を受けた大臣は、この件の
事情説明をしましたが、それによりますと、風邪薬を
飲みに食堂に行ったが、日頃から、「ただ座るのでは
なく、コーヒーを頼む精神だった」とのことで、「精
神」という言葉の使い方が、まずもってすごいと、感
心させられました。

 あわせて、お詫びの言葉を述べた後、大臣を辞める
までの間は、「国会内で、コーヒーを飲まない決意で
臨みたい」と、表明されました。

 コーヒーを頼む「精神」に続いて、コーヒーを飲ま
ない「決意」を聞くに及んで、笑いをこらえることが
出来ませんでしたが、それと同時に、あるシーンが頭
に浮かび上がりました。

 それは、市川海老蔵さんが、酒に酔って負傷した事
件の後、記者会見の席で、飲みに出ようとしていた自
分に、もし声をかけるとしたら何と言いますか、との
質問を受けた時のことです。

 海老蔵さんは、「出かけるのをやめなさい」と答え
て、会場からは、微妙な笑いが起きました。

 体調不良を理由に、記者会見をキャンセルして、酒
を飲みに行った歌舞伎役者の決意と、風邪薬を飲むつ
いでに、コーヒーを飲んでいた大臣の決意、どこか似
ていて、寂しく笑える出来事でした。

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2012/02/18

一文字のご利益

 世界を舞台に活躍する、スポーツ選手を見ていて、
ふと感じたことがありました。

 そのきっかけは、テニスの錦織圭さんで、先日の全
豪オープンでは、ベストエイトまで進んで話題になり
ました。

 このため、今回の活躍を受けて、テレビ各局が、特
集を組んでいましたが、その中で、なるほどと思った
のは、息子さんが生まれた時に、なぜ「圭」という名
前をつけたのかという質問に対する、錦織さんのお父
さんの答えです。

 それは、アルファベット一文字の名前にすれば、何
の道であれ、将来、世界で活躍出来るのではないかと
思ったから、というものでした。

 そのインタビューを見ていて、ふと連想したのが、
アメリカ大リーグに移籍が決まった、ダルビッシュ有
さんと、ゴルフの宮里愛さんです。

 というのも、錦織さんが「K」、ダルビッシュさん
が「U」、宮里さんが「I」と、そろって、アルファ
ベットの一文字で、表せる名前だったからです。

 そこで、もしかして自分も、アルファベット一文字
の名前にすれば、世界に飛躍できるかもしれないと、
あほなことを思いついて、「Z」の方からたどってみ
ました。

 そうすると、日本語にも使える文字として、最初に
出てきたのが「Y」でした。

 ところが、広辞苑で「わい」を引いてみますと、歪
曲の歪、賄賂の賄、猥褻の猥と、ろくな字が出てきま
せんでしたので、その始終を、ツイッターにつぶやい
て見ました。

 すると、フォロワーの方から返ってきたのは、貴方
は孫もいるんだから、橋本「G」=「爺」がいいので
はとのご指摘で、なるほど、それもそうかと納得させ
られました。

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2時間半のぶっ通し

 政治に関心のある人たちのための政策学校で、2時
間半という、長丁場の授業を担当しました。

 この学校は、首長や議員を目指す人をはじめ、広く
政治に関心を持つ人たちのための、いわゆる政治塾の
一つですが、どういう方々が参加しているのかという
興味もあって、授業を引き受けました。

 引き受けた時には、1時間あまり話をすればいいの
だろうと考えていたのですが、持ち時間が2時間半、
それもケーススタディーでと言われますので、考えあ
ぐねた結果、高知県の知事時代に関わった、県立中央
病院と高知市民病院との統合を、話のテーマに選びま
した。

 この事業は、最初に話が持ち上がってから、高知医
療センターという形で、新しい病院がスタートするま
でに、およそ13年を要していますが、これを、3つ
の時期に分けて、ケーススタディー風にまとめてみま
した。

 その内容はともかく、2時間半という時間は、間に
意見交換を挟むのであれば、決して長すぎる時間では
ないというのが、まず一つ感じたことです。

 もう一つ、受講生がこのブログをご覧になったら、
失礼な話かもしれませんが、思ったより質の高い人が
多かったというのが、正直な印象でした。

 というのも、従来、政治家を志望して、何々塾とい
った塾に参加する方は、思い入れだけが強いタイプが
多くて、資質としてどうかと感じることが多かったか
らですが、その点では、少し世の中の風向きが、変わ
ってきているのかと感じました。

 いずれにしろ、政治の世界に、ごく普通の、真っ当
な感覚を持った人たちに入っていただくことは、とて
も大切なことですので、そのために、何か役に立てれ
ばと考え続けています。

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2012/02/17

この夏の電力は  

 東京電力の方から、電力の需給調整に関するお話を
聞くうちに、より中立的な立場で、電力需給の見通し
を、考える必要があると感じました。

 あえて中立的と言ったのは、今この話題を取り上げ
ますと、必ず、脱原発か原発容認かといった二極対立
の構図に、話を持ち込む人がいるからですが、「脱」
だ「反」だと言うまでもなく、原発から脱却せざるを
得ない現状であることは、目に見えています。

 それだけに、その前提に立って、これから数ヶ月か
ら1年の間の電力需給の予測を、冷静に検討しないと
いけません。

 僕が話をうかがった、東京電力の方は、いわゆるえ
らい手ではなく、現場の第一線で仕事をしている方で
すが、電力の受給に関して、自分の認識にはなかった
話がありました。

 それは、一日に供給出来る電力の総量には、限りが
あるという話ですが、聞いた側が素人ですので、もし
かすると、誤解があるのかもしれません。

 ただ、そのことは横に置いて、聞いた話をそのまま
紹介しますと、これまで指摘されていた、電力の需給
に関する心配は、電力の消費量が一年でも一番多い、
真夏のある日に、使用量がピークを迎えた瞬間、電力
が不足して、電気が切れることがないかという点でし
た。

 このため、予想されるピークよりも10%分多い、
予備の電力を確保するようになっていますし、その予
備の分が3%を切った時には、他の電力会社から、東
京電力であれば、中部電力から、電気を融通してもら
えることが制度化されています。

 しかし、このような、電力消費の瞬間的なピークに
備えるという観点の他に、一日に使える電力の総量と
いう大枠があることを、考えなくてはいけないという
のが、この方の指摘でした。

 特に冬場は、朝と夕方過ぎの2回、電力消費量のピ
ークがあるのですが、今年は、例年になく寒い日が続
いたため、夜に入っても、使用量がさほど減りません
でした。

 この結果、一日の総量を使い切って、全面的な停電
に至る危険が出て来たため、夜になってから、企業向
けのPPSが供給する、電力の余剰分を買い取って、
やりくりすることもあったと言います。

 こんな話を紹介しますと、東電の社員だから、原発
の再稼働を目指して、都合のいい話を言ってるだけだ
のひと言で、片づけられるかもしれません。

 ただ、幹部の話ならいざ知らず、毎晩遅くまで需給
の調整にあたっている、現場の社員の話には、真摯に
耳を傾ける価値があると思いました。

 というのも、この話が聞き間違いでないのなら、こ
の夏はこのままでは済まないでしょうし、計画停電な
どの措置がないまま、そうした事態に陥った時には、
東京電力の管内では、丸一日から二日にわたって、全
面的な停電が起きる恐れがあるからです。

 僕は、たまたま、この話を聞いたわけですが、こう
したリスクが、現実にはどれくらいあるのか、中立的
な立場で、検証してほしいと思いました。

 例えば、電力会社で、電力の需給調整をしている部
署に記者が入って、需給のやりくりの現場を取材する
といったことは、出来ないのでしょうか。

 いずれにしろ、東京電力の関係者が言うことは、一
切信用できないと決めつける人には、何を言っても仕
方ありませんが、現場の苦労を理解しているとは思え
ない、電力会社の幹部と、全てを十羽ひとからげに批
判する立場の間で、気がついてみたら、全面停電にな
っていたという事態だけは、避けてもらいたいもので
す。

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2012/02/14

高校生にもらった元気 

 東北の震災で被災した、高校生のスピーチを聞く機
会がありましたが、その芯の強さに、心を揺り動かさ
れました。

 これは、ある企業が主催したフォーラムでのことで
すが、東北の被災地で、教育支援をしているNPOの
方々のお話に続いて、被災した2人の女子高校生が、
演壇でスピーチをしました。

 2人とも、津波でお母さんを亡くしたという、辛い
経験の持ち主ですが、このうち、南三陸町の高校3年
の女の子は、地震が起きた時、お母さんと一緒にいま
した。

 地震の発生とともに、これは津波が来ると感じて、
二人して、町が避難場所に指定していた、中学校まで
逃げましたが、間もなく、そこまで這い上がってきた
津波に、飲み込まれてしまいます。

 その瞬間、胸一杯息を吸い込んだのですが、すぐに
我慢出来なくなって、海の水を飲んでしまいます。

 「ああ、私はこれでもう死ぬんだ」と思った瞬間、
屋根と車の間に挟まって、水面に顔を出すことが出来
たため、九死に一生をえました。
 
 でも、お母さんは、そのまま、行方がわからなくな
ってしまいました。

 地震の前にお母さんが、ショッピングセンターに行
こうと誘ってくれた時、何か気乗りがせずに断ったけ
れど、あの時ショッピングセンターに行っていたら、
そこまでは津波が来なかったのにとか、一緒に逃げた
時に、お母さんの袖を握っていれば、自分が屋根に引
っかかった時、お母さんを引き上げられたかもしれな
いと、数々の悔いが残るという話を、淡々としてくれ
ます。

 淡々とと言っても、もちろん、冷たくあっさりとと
いう意味ではなく、静かな気持と、しっかりとした口
調で、事実を語ってくれますので、その芯の強さが胸
に迫りました。

 彼女は、この4月から大学で、医療工学を学ぶ予定
で、卒業後は被災地で、被災者のために仕事をしたい
と言います。

 ただ、それだけでなく、世界には、自分たちのよう
な災害の被災者以上に、日々、辛い苦しい思いをして
いる子供たちが沢山いるので、遠い将来は、そうした
子供たちを支援するため、国際的なNPOで働くのが
夢だと付け加えました。

 彼女や、その仲間たちは、未来の東北のリーダーを
育てる、というプロジェクトに応募して、選ばれた高
校生たちですが、その強さと可能性に触れて、こちら
が逆に、清々しさと元気をもらいました。 

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 ポケットの中味

誕生日を前に、わが家に届いた封書からは、今年の
誕生日にふさわしい代物が入っていました。

 というもの、今年の誕生日で僕も65歳、ようやく
前期高齢者の仲間入りですが、そのしばらく前に、わ
が家に、一通の小振りの封書が届きました。

 珍しいサイズでしたので、何だろうと思って開けて
みますと、何と介護保険の被保険者証です。

 早速、妻にそのことを知らせますと、その証書が来
ると、介護保険料がまた上がるのよとのことで、なる
ほど、もう少し仕事を頑張れという意味だなと、敏感
に感じ取ってしまいました。

 孫たちからも、お祝いの電話をもらいましたが、一
番上の孫は高校一年ですので、ちょうど50年の開き
があることになります。

 その50年前、僕のポケットには、当時通っていた
高校の、生徒証が入っていましたが、それが今は介護
保険の証書ですから、50年の歳月の重みはなかなか
のものです。

 さりとて、ポケットの中味は違っても、気持はあま
り変わりませんので、これからも、後期高齢者から末
期高齢者、さらには終末期高齢者へと、元気に突き進
んでいきたいと思っています。

 終末期が元気だと、さぞ人迷惑なことだろうとは、
思いながらも。

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2012/02/13

白髪男の玉手箱

 兄嫁の家から、母が愛用していた、古い手提げ箱を
持ち帰ってみると、中からは、思わぬ品が次々と顔を
出しました。

 この手提げ箱は、竹を使った中国風のあしらいで、
僕が物心がついた頃から、母が、身の回りの、大切な
ものをしまうのに使っていました。

 この手提げ箱は、母が亡くなった後は、兄の家に置
いてありましたが、その兄も今年で七回忌ですので、
兄嫁の引っ越しを機会に、わが家に引き取ってきまし
た。

 見るだけでも、触れるだけでも懐かしい箱ですが、
中を開けると今度は、懐かしさに加えてびっくりの連
続でした。

 まず、ふたを開けて上の段を見ますと、母の字で、
「正子の大切な品」と記した、小さな紙の包みが出て
きます。

 恐る恐る包みを開きますと、中から出てきたのは、
父のへその緒と、父が生まれたばかりの時に切った、
産髪(うぶがみ)でした。

 父が亡くなって、今年で50年、今から数えれば百
年以上前にあたる、父の誕生の日の記念の品を手に、
自然の神秘を感じました。

 と同時に、どんな機会に、父が、これを母に手渡し
たのだろうかと、思いを巡らせてみました。

 さらに、下の段には、戦後間もない時代、僕がまだ
幼稚園に通っていた頃に、政治家として、西アジアか
ら東南アジを歴訪した父が、僕たち家族に宛てた、葉
書の束が出てきました。

 家族に宛ててとは言っても、母と、中学生だった兄
と僕には、それぞれ別々の内容で、僕宛のものは、全
文ひら仮名です。

 一方、兄に宛てた葉書には、シンガポールで、在シ
ンガポールのイギリスの総督と会った話などが書かれ
ていて、三人に三様の話を書くのも、大変だったろう
と偲ばれました。

 もう一つ、歴史を感じたのは、太平洋戦争の開戦の
前年、昭和15年に行われた紀元二千六百年記念式典
の、父への案内状です。

 葉書大の案内状には、当時、興亜院という役所の官
吏をしていた父宛に、皇居の外苑に両陛下がお出まし
になるので、参列をするようにと記されていますが、
文面の最後には、「内閣総理大臣 近衛文麿」とあっ
て、教科書で見た名前を再発見した思いでした。

 この日は、僕の、65歳の誕生日の前日でしたが、
煙も出ぬ間に、髪の色もすっかり白くなった自分にと
っては、何よりの玉手箱でした。

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足しても2で割れない

 昨年出会った星占いの先生には、今年の運勢はとて
もいいと太鼓判を押されたのですが、氏神様のおみく
じは末吉でしたので、さてどうしたものかと、思案投
げ首です。

 星占いの女性とは、ある食事会でお会いしたのです
が、星占いは、災害や恋愛などの分野別に、専門が分
かれているのだそうです。

 ではこの方はと言えば、災害の占いは、兆しが出た
時が恐いためとの理由で、恋愛や仕事運など、暮らし
に関わるテーマを専門にされていました。

 それでも、将来の運が悪いと占いに出た人に、その
ことを、明け透けに言うのは難しいでしょうと尋ねま
すと、そういう人は、一度予約を入れてきても、何か
の都合で来られなくなるケースが多いと言います。

 そうか、星占いの予約を入れた後、その予約をキャ
ンセルせざるを得なくなったら、それが凶運の知らせ
なのかと、一つ勉強になりました。

 皆さんも、占いの予約を入れたら、少々のことがあ
っても、キャンセルをしない方が良さそうです。

 そんなお話を聞いた後、自分の今後を占っていただ
きますと、次の一年の運勢はとてもいいと、太鼓判を
押して下さいました。

 一方、年が改まってから、渋谷の名の由来ともなっ
た氏神さまを訪ねて、おみくじを引いてみますと、今
年は末吉、あまり無理をせずに、静かにしていなさい
とのご託宣です。

 ということは、あまり調子に乗ってはいけないとい
うことでしょうが、絶好調の星占いとどう折り合いを
つけたらいいのか、足して2で割るわけにもいかず、
難しい判断を迫られそうです。

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2012/02/11

えらい喧しいですが

 年末年始は、宮崎市内で一人暮らしをしている、妻
の母のもとで過ごしました。

 このブログにも、何度か登場している妻の母は、満
で88歳、足腰の元気さはそれなりに衰えましたが、
ご本人が言うところの「びんた」、つまり頭はいたっ
て元気で、当意即妙、楽しい会話が楽しめます。

 自分が間もなく90歳だと思うと、どうしてもそれ
が納得できないと繰り返しますが、この調子だと90
歳の壁も、やすやすと越えていけそうな予感です。

 大晦日には、その母と妻の3人で、紅白歌合戦を見
ましたが、始めに出場歌手が勢ぞろいした場面では、
ある男性歌手の顔を見て、「この人、昔と比べて、か
なり顔が変わっちゃいませんかねえ」と、いきなり、
答えにくいつぶやきを漏らします。

 前半戦が終わって、これから後半戦という時には、
「これで、団体戦が終わりですか、これから個人戦じ
ゃね」と、グループ全盛の時代を切り取るような、見
事なコメントが炸裂します。

 その後半戦、レディー・ガガが登場した場面では、
「この人は、どこの国の人ですか、えらい喧しいです
が」と、ガガ様も、レディー・ババの前では形なしの
状態でした。

 といったわけで、長丁場の紅白にも、飽きることな
く、最後まで見ることが出来ました。

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もう一つの温度差

 12月の後半に、北京にある、中国共産党中央党校
が主催する、シンポジウムに出席しましたが、わずか
な滞在期間の中でも、部屋の内と外との温度差が体感
できました。

 といっても、ホテルの室内と外気の温度差ではなく
て、いわば文化と政治の温度差ですが、北京に入って
間もなく出会った20代の女性は、流ちょうな日本語
で、自分は小さな頃から、日本のアニメを見て育った
ので、アニメや漫画が大好きだと言います。

 セーラームーンをはじめ、ドラえもんやあられちゃ
ん、さらに、タッチの浅倉南ちゃんあたりは、十分話
についていけましたが、ついには、まったく知らない
萌え系のキャラも登場します。
 
 かといって、今さら知らないというのもしゃくなの
で、知っているふりをして話を合わせましたが、アニ
メ文化の浸透は、並大抵ではありません。

 また、街には、サンタやクリスマスツリーの飾りが
あふれていて、ここには西欧の文化が、抵抗なく受け
いれられています。

 そんな街の雰囲気に触れていますと、中国にも、文
化のグローバル化の波が読みとれますが、一歩、政治
向きの世界に足を踏み入れますと、こちらは相変わら
ず、一歩も譲らない姿勢が際立ちます。

 例えば、僕が参加したシンポジウムは、震災後の民
主党政権と日中関係がテーマでしたが、中国側のスピ
ーカーからは、TPPを、アメリカの中国封じ込め政
策と受けとめる意見や、台湾問題への言及が相次ぎま
した。

 自分の感覚では、TPPはともかく、台湾問題が、
日本との間の、現状でのメインなテーマかと感じてし
まうのですが、「台湾海峡で一旦ことが起きた時に、
日本は、アメリカと行動をともにするとしているが、
そんなリスクを負うメリットがあるのか」といった質
問も飛びます。

 単に、台湾の総統選挙が、目前に迫っていたからな
のか、それとも、別の理由があったのかは分かりませ
んが、こちらも、原則論の立場を持っていないといけ
ないと、あらためて感じました。

 と同時に、TPP等の動きが、すでに、安全保障的
な作用を果たしていることも、十分に受けとめられま
したが、部屋の内と外の温度差が、やがてヒートショ
ックを呼び起こすかどうかは、さっぱり見当がつきま
せんでした。

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2012/02/10

古くて新しい言葉

 障害者問題に取り組む、小さな団体のシンポジウム
に参加して、災害弱者という古くて新しいテーマにつ
いて、あらためて考えさせられました。

 この日は、身体障害者だった父の、思い出などをお
話した後、視覚と聴覚の障害者の方と席を並べて、パ
ネルディスカッションに参加しました。

 視覚障害者の方は、12歳の時に失明した方で、全
国に3人しかいない、全盲の弁護士さんの1人です。

 一方、聴覚障害者の方は、関係の団体の役員をされ
ていますが、視覚と聴覚の障害者が、一緒にパネルを
するのは、珍しいことではないかと思いました。

 このため会場には、参加者向けとパネラー向けに、
2人の手話通訳者がいて、背中を向けあって手話をし
ます。

 パネルのテーマの一つは、災害時の障害者への対応
でしたので、僕からは、警報に気づくことが出来ない
聴覚障害者に、ファックスを流して危機を伝える工夫
など、経験のいくつかをご紹介しました。

 また、今回の東日本の震災と、その後の原発事故に
関して、官房長官の会見に手話通訳をつけてほしいと
の、ツイッターでのつぶやきを受けて、微力ながらお
手伝いをしたことなどもお話ししました。


一方、 他のパネラーからは、様々な問題点が指摘さ
れましたが、まず、今回の東日本の震災での、死亡率
を見比べてみても、健常者が1%なのに対して、障害
者は2%だったのだそうです。

 また、無事避難をして避難所に入ったものの、知的
障害のあるお子さんが大きな声を出すため、居づらく
なって、避難所を出て行った家族もいました。

 日頃から、障害者がいる環境が当たり前になってい
れば、こうしたことも起きないのにというのが、パネ
ラーの方からの指摘でした。

 さらに、個人情報保護法の壁で、JR福知山線の脱
線事故の時には、入院をした障害者に関する大切な注
意事項が、病院に伝わらなかった事例があったそうで
すが、東日本の震災の際にも、同様のことが繰り返さ
れたと言います。

 このように、障害者のパネラーから提起された情報
は、災害弱者という古くて新しい言葉を、あらためて
思い起こさせるのに十分でした。

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「ひとにぎり」から「塩にぎり」へ

 中学時代からの、親友のお嬢さんが監督した、古い
製塩法をテーマにした、ドキュメンタリー映画を鑑賞
しました。

 「ひとにぎりの塩」と題された、このドキュメンタ
リーは、彼女にとっては、監督として2作目の作品で
す。

 舞台は、能登半島にある珠洲市で、テーマは、揚げ
浜式塩田と呼ばれる、地元に古くから伝わる製塩の技
法です。

 この技法は、昔は各地で行われていたようですが、
海水をまくための、広い砂浜が必要なことから、時代
とともに、新しい技法に変わっていきました。

 それが、戦争中の塩不足をしのぐ手立てとして、こ
の地に引き継がれていたもので、再び訪れた時代の変
化とともに、今一度見直されています。

 映画は、そんな揚げ浜式塩田の歴史をはじめ、砂浜
に海水をまいてから、濃縮した海水を煮詰めるまでの
製法、さらには、そこに関わる人々の暮らしを描きま
すが、原発事故によるエネルギーの制約が、目前に見
えている時代だけに、ノスタルジーだけではない、身
近にある価値が、読みとれる気がしました。

 監督のご両親、つまりは、僕の親友夫妻に、「『ひ
とにぎりの塩』の次回作は、おにぎり名人のお婆さん
を主人公にした、『塩にぎりの人』がいいね」と、軽
口を言いますと、早速その話を、監督に伝えてくれま
した。

 このため、監督からは、スタッフの間で、「塩にぎ
りの人」が受けましたと言われて、おじさんは、ちょ
っと恐縮しました。

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2012/02/09

エリカ様の手料理

 長野県の佐久地方でコメ作りを営んでいる、知人の
家で出会った青年は、意外な経歴の持ち主でした。

 この知人は、民間会社に務めた後、家を継いでコメ
作りを始めましたが、企業での経験から、チッソの量
と稲の実り具合や、耕運機の刃の回転数と土の柔らか
さの関係などを、細かく調べて統計を取った結果、科
学的な根拠を持って、美味しいコメ作りを進めていま
す。

 それでも、コメ作りの要素のうち、生産は20%、
残りの40%ずつは、販売力とコストマネージメント
なので、いくら美味しいおコメを作っても、それだけ
では商売にならないし、農協に出荷したら、絶対に食
べてはいけないと、有るべき方向性を、極めて明快に
語られます。

 このため、インターンの形で手伝いに来ている、農
業志望の人がいるのですが、この日会った、新規に就
農して2年目という青年は、実に興味ある経歴を持っ
ていました。

 それは、沢尻エリカさんのご主人、高城剛さんのア
シスタントという経歴で、こもため、2人が葛飾区役
所に出した婚姻届には、立会人として、彼の名前が出
ていると言います。

 あわせて、結婚式の段取りや、当日の舞台回しの裏
方も務めました。

 さらに、2人がスペインに行く前に、ロンドンに滞
在していた時のこと、クリスマスの日に沢尻さんが、
「ご飯、食べてったら」と誘ってくれて、鳥を焼いて
クリームソースをかけた、手料理をいただいたとのこ
とでした。

 彼によると、沢尻さんは、とても気のつく女性で、
今のイメージは、作られたものだと言います。

 その彼が、なぜ佐久に来たのかは、話が長くなるの
で省きますが、面白い人のもとには、面白い人が近づ
いて来るものだと、感心しました。

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日本も捨てたものじゃない

 社会起業家が集まる、フォーラムに参加して、日本
もまだまだ、捨てたものではないと感じました。

 社会起業家というのは、社会や地域にある問題を、
行政の手で、つまりは税金で解決するのではなく、ま
た、ボランティア活動で、つまりは無償の奉仕で解決
するのでもなく、事業という形態を取ることで、問題
の解決に、持続的に関わっていこうとする取り組みで
す。

 この日は、12人の社会起業家が、かわるがわる、
一人7分ずつのスピーチをしました。

 いずれも、パワーポイントを使った、事業説明型で
はなく、会場の参加者に向けて、自分の言葉で語りか
けるスタイルで、それだけでも、他にない力強さが感
じられます。

 その中で、学童保育の完全民営版のNPOを運営し
ている、30代後半の男性は、7年前に長女が誕生し
た時に、この子が学校に通う頃には、社会の環境はど
うなっているだろうかと考えたそうです。

 というのも、その頃、幼女を連れ去るといった事件
が、全国で相次いでいたからですが、調べてみると、
午後3時以降の放課後の時間帯が、一番問題が多いこ
とが分かりました。

 そこで、放課後に、安心して外にでかけられない子
供たちを集めて、暇を持て余している、団塊の世代な
どの大人たちに、経験や技を披露してもらう場を作ろ
う、と考えたのが始まりでした。

 ところが、大人の協力はすぐに得られたものの、こ
うした事業に対して学校は、すぐには門戸を開いてく
れませんので、子供を集めるのに大変苦労します。

 その扉を開いてくれたのは、民生委員・児童委員さ
んで、賛同してくれた委員さんが、5人のお子さんに
声をかけてくれたのが、スタートになりました。

 これをきっかけに、地道に活動を続けている間に、
口コミで広がって、集まってくれる子供たちも次第に
増えていきました。

 こうして2年経った時、ある小学校の校長先生が、
理解を示して下さって、一気にその輪が広がっていき
ます。

 NPOを立ち上げて6年、これまでに、のべ2万人
の子供たちが、利用してくれていますし、様々な経験
を持つ大人たちを、講師として学校に派遣する仕事も
始まりました。

 この方のほかにも、フィリピンのセブ島の孤児院を
支援するため、その施設から大学に通っている学生を
先生役に、スカイプを使って、日本向けの英語教室を
運営しているNPOや、出産前後のお母さんの、心の
ケアをしているNPOの代表など、幅広い分野で活動
する社会起業家が、次々と語りかけてくれました。

 東日本の大震災の後、日本人の中に、しばらく忘れ
られていた連帯の気持ちが、甦ったように感じられま
すが、こうして、社会起業家のプレゼンを聞いていま
すと、日本もまだまだ捨てたもんじゃないと、心強い
気持になりました。

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長らくご無沙汰しました

 去年の10月以降、むやみと時間に追われるように
なって、長いことブログをお休みしていました。

 しかし、時間に追われても、お金には追いつかない
ことがわかりましたので、少し余裕を持って、ブログ
に復帰することにします。

 古いネタも、古くないように加工しながら、しばら
くは、一日2本のペースでアップします。

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