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2012年3月

2012/03/27

夢に忠実な人

 ある晩、一緒にお食事をした女性は、牛肉も生魚も
食べない方でした。

 くだんの女性は、高知の知事時代からの知人でした
ので、妻ともども仕事の打ち合わせを済ませますと、
早稲田にある居酒屋さんで食事をしようと誘ってくれ
ます。

 聞けば、そこは彼女が早稲田に住んでいた頃、毎日
のように通ったお店なのですが、病気をした後、あま
りお酒が飲めなくなったため、足が遠のいていると言
います。

 このため、お店のご主人との挨拶も、ご無沙汰とい
う言葉から始まりましたが、ご主人によると、このお
店の4本の柱のうち2本は、彼女のおかげだというこ
とで、いかに通い詰めていたかがよくわかります。

 さすが馴染みのご主人だけに、彼女の好みをよく知
っているのですが、その話を聞いていると、食べられ
ないものがとても多いのです。

 そこで、理由を聞いてみたのですが、彼女の話は、
本当かと思うような驚きの連続でした。

 それは、いずれも田舎にいた小学校時代のことです
が、まずはお刺身を食べた日の夜、立ち姿の魚が、尾
びれを足にして自分の方に近づいてくると、あなたが
食べた魚は、私の家族だったと言って泣いたのだそう
です。

 それ以来、お刺身が一切食べられなくなりました。

 また、農家だった実家には牛が飼われていたため、
つぶらな瞳と長いまつげを見るにつけ、牛肉を食べる
ことには抵抗があったのですが、牛肉を食べたある夜
のこと、今度は夢の中に牛が現れました。

 よく見ると、牛の片方のお尻が、えぐり取られてい
ます。

 不思議に思って、夢の中の彼女が、「牛さん、どう
してお尻の肉がないの」と尋ねると、牛は、「それは
あなた方が、昨日食べちゃったからだよ」と答えまし
た。

 えらくシュールな話ですが、それ以後は、牛肉も口
に出来なくなりました。

 いやあすごい人だと思って聞いていますと、玉ねぎ
やラッキョウも食べないのだと言います。

 こちらは夢とは関係がないのですが、その理由は、
皮をむいてもむいても、正体が見えないので嫌なのだ
とのことで、これは筋金入りの人だと、あらためて感
心しました。

 さらに、人の生と死に関しても、彼女は独自の想い
出を持っていました。

 ある日、赤ちゃんはどうして生まれるのだろうと疑
問を持って、お婆ちゃんに尋ねますと、コウノトリが
運んでくるんだよと、わりとあり気な答えを教えてく
れます。

 そこで、赤ちゃんの生まれた家のまわりを見回った
のですが、鳥が運んできた様子はありません。

 これは、お婆ちゃんが嘘をついたのに違いないと勘
づいて問い詰めますと、お婆ちゃんは、「お前は賢い
子だから、本当のことを教えてあげよう」と言って、
「実は、裏の畑のキャベツから取れたのだよ」と話し
てくれました。

 このため、キャベツの外側の葉が巻く時期に、じっ
と畑に座って見つめましたが、どう見ても、赤ちゃん
が取れるとは思えません。

 またお婆ちゃんにだまされた気づいて、もう一度問
いただそうとした時に、お婆ちゃんは病気で亡くなっ
てしましました。

 もう一つは、お父さんが亡くなった時のことで、お
父さんはジャガイモになったと、教えられたのだそう
です。

 彼女のことですから、ジャガイモになったのなら、
きっと芽が出てくるはずだと思って、毎日お墓を見に
行きましたが、芽が出てくる気配はありません。

 そうか、上に石が乗っかっているから芽が出ないの
だと思って、お墓の石を動かしてみたところ、みんな
から、こっぴどく怒られたとのことでした。

 亡くなったお父さんが、ジャガイモになったと教え
る方も教える方なら、それを信じる方も信じる方だな
あと、開いていた口がさらに開きかけましたが、子供
の頃に、彼女が抱いていた将来への夢を聞いて、なる
ほどとうなずけるものがありました。

 それは、早稲田大学を1年で中退した後、小説家に
なるという夢で、この夢そのもののは実現しませんで
したが、出版社の編集者という形で、数多の小説家と
つき合うことになりました。

 その上、早稲田大学に進学しなかった代わりに、早
稲田に住んで、この居酒屋さんに通ったということで
すので、どこまでも、夢には忠実な人なのだと納得さ
せられました。

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私家版にほん昔話

 このブログにも、ちょくちょく登場する妻の母が、
この3月で、満89歳の誕生日を迎えましたので、宮
崎の母の家で、ささやかなお祝いをしました。

 お年寄りには、全般的にその傾向がありますが、宮
崎の義母も、直近の出来事はすぐに忘れてしまいます
から、今日は何日だったかねといった問いかけを、何
度も繰り返したりします。

 これに対して、娘である妻が、「さっきも言ったが
ね」と答えると、「しょうがないわね、忘れるんだか
ら、聞いた話はその場その場よ」といった調子で、こ
りた様子もありません。

 以前にも、部屋でうとうとしていた妻に、義母が、
「ねえねえ」と話しかけていますので、何だろうと思
って聞いていますと、「わたしゃあ、いったい何人子
供を産んだんかねえ」という、目の覚めるような質問
が繰り出されます。

 せっかくのまどろみを邪魔された妻は、「そんなこ
とは、自分で考えない(考えなさい)」と、ふて寝を
決め込みましたが、こんなやり取りもしばしばです。

 ところが、これが昔話となると、打って変って記憶
のひだが活動を開始します。

 例えば、義母は現在の都城(みやこのじょう)市、
当時の西岳(にしだけ)村の生まれですが、80年前
の小学校時代に、授業を終えての下校の途中、知り合
いのおじちゃんが運転するバスが通ると、停留所でも
ないのにバスを止めて、家の近くまで送ってくれたと
いった思い出話が、湯水のように湧き出てきます。

 義母の記憶では、誕生日も、実際には2月の何日か
なのだそうですが、何かついでのある時に、役場に届
け出ればいいだろうと放っておかれたため、戸籍上の
誕生日は、3月14日になったとのことでした。

 今年、その誕生日を迎えれば満で89歳、昔なら数
えの90歳になりますので、ささやかなお祝いをする
ために、妻とともに宮崎へ向かいました。

 お祝いの晩餐は、日頃からお世話になっている、妻
の従姉夫婦を呼んで、誕生日の2日前に済ませたので
すが、誕生日当日の朝、妻と二人台所にいますと、義
母の部屋から何やら話声が聞こえます。

 電話でもしているのかと思って、部屋をのぞいてび
っくり仰天、そこにいたのは、ある理由があって長い
間、義母との縁が切れていた女性でした。

 聞けば、今さら受けいれてもらえるだろうかと、恐
る恐る庭から顔を出したところ、お母さんが喜んでく
れたので、部屋に上がり込んだと言います。

 今は県外にいる彼女は、宮崎にいる娘さんを訪ねて
来たとのことでしたが、予想もしない来訪者に、義母
も、彼女の手を握って大層な喜びようです。

 久し振りに積もり積もった話をしながら、それにし
ても、よく母の誕生日を覚えていましたねと水を向け
ますと、「え~っ、お誕生日でしたっけ」との答えが
返ってきました。

 よく聞くと、さすがに誕生日まで覚えていたわけで
はなくて、数年ぶりの訪問が誕生日だったのは、まっ
たくの偶然だと言うのですが、それにしてもすごい偶
然があるものだと、一層話が盛り上がりました。

 にっぽん昔話ならば、恩返しに来た鶴が、人間の女
性のなりをして訪れたような場面ですが、義母の喜び
ようを見ていますと、昔話を聞くような、ほのぼのと
した思いに駆られました。

 私家版にほん昔話の主人公、89歳を迎えた「おう
な」の長寿を祈っています。

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2012/03/19

一に確認二に確認

 家にファックスを付けけようと、0120に電話を
したのをきっかけに、あらためて、確認型社会のすご
さを、確認してしまいました。

 その日、プッシュホンで0120を押しますと、お
客様の番号がわかるように、電話番号の前に186を
つけてからおかけ直し下さいと、お知らせのテープが
流れます。

 言われた通り、186をつけてプッシュしますと、
スタッフの方が出てくれましたので、ファックスをつ
けたい旨伝えました。

 すると、「ファックスの取り付けでございますね、
有難うございます」という言葉に続いて、「お客様の
本人確認のため、免許証か健康保険証をコピーして、
次の番号にファックスでお送り下さい」と、言われま
す。

 おーっ、ファックスの取り付けを頼んでいる人に、
ファックスで資料を送れというアイロニーが、また素
晴らしいと思いながら、早速、近くのコンビニに走り
ました。

 無事、コンビニからファックスを送って家に帰りま
すと、指定した携帯が鳴って、料金が4千いくらにな
りますと告げられましたので、いつお支払いをするの
ですかと尋ねますと、振り込みをしていただくと手続
きが始まりますので、口座番号を申し上げますとのこ
とです。

 あわてて口座番号をメモすると、今度は、近くの郵
便局に走って、振込みを済ませました。

 すると、再び携帯が鳴りましたので、いよいよ工事
日のお知らせかと思いますと、それでは、お手続きを
開始しますので、まずご自宅宛てに、書類をお送りし
ますとのお知らせでした。

 あらためて、確認型社会の手ごわさを実感しました
が、それだけ、他人へのなりすましなど、悪知恵を働
かす人が多いのだろうと思いました。

 考えて見ますと、コールセンターのサービスにつき
ものの、「録音をとらせていただきます」のひと言が
なかったのが、物足りないくらいで、これからの時代
は、一に確認二に確認の面倒な手続きにも、苛立つこ
となく、合せていかないといけません。

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2012/03/10

10年後にまた会いたい

 間もなく、東日本大震災から一年という日の夜、震
災で肉親を失った、若者たちを支援するグループの、
夕食会に出席しました。

 この団体は、ビヨンド・トゥモロウという名で、東
北の被災地の25人の若者を、支援する活動を続けて
いますが、その若者たちに、自らの体験談や、この国
に対する思いをお話をした縁で、彼らを囲む夕食会に
も声をかけてもらいました。

 各界の著名人も参加する、そうそうたる夕食会でし
たが、その席で二人の若者が、あの日の体験と、それ
からの思いを語りました。

 一人は、9月からスイスの寄宿学校に留学する予定
の、石巻の高校一年の女の子、もう一人は、4月から
大学に進学する、大船渡の男子高校生です。

 いずれも、とても重い話ですし、かなり長くもなり
ますが、二人が語ってくれた話を、なるべく忠実に再
現することにします。

 「3月11日は、中学校の卒業式の日でした」、石
巻の女の子の話は、こんな切り出しで始まります。

 10年間つき合った友達との、記念の日に、良い日
になると思っていました、その後、家に帰ったら、経
験したことのないような揺れに襲われました。

 すぐに停電して、テレビを見ることが出来なくった
ので、私の携帯で、津波警報が出ていることを知りま
した、しかし、時すでに遅く、地鳴りのような音とと
もに、黒い水とがれきが、私の家と家族を飲み込みま
した。

 もう死ぬんだ、高校の制服を着たかったなあと思っ
た時、がれきの下から、母が私の名前を呼ぶ声が聞こ
えました。

 そこには、変わり果てた姿の母がいました、挟まれ
た足を抜こうとしても、一人ではどうしようもない重
さです。

 母を助けたいけれど、このままここにいたら、自分
も流されてしまう、母を助けるか逃げるかと考えたう
え、自分の命をとりました、今思い出しても、涙の止
まらない選択でした。

 母に、有難う有難うと声をかけますと、母は、行か
ないでと言いましたが、その母を置いてきました、こ
れ以上辛いことは、これからの一生のうちにも、もう
ないと思います。

 泳いで小学校の方に渡って、一晩を過ごしました、
辛くて死のうと思った日もありましたし、なんで私だ
けがと、思ったこともあります。

 私は、沢山のものを失いました、でも、多くの方々
のおかげで、沢山のものもいただきました。

 続いて演壇に立った、大船渡の男子高校生の話は、
「前日の午後4時ごろ、空が赤くなって、鳥が一杯空
を舞っていたので、何か悪いことが起きなければいい
がと思っていました」と、地震の前日の記憶から始ま
ります。

 3月11日、14時45分18秒、地震が起きた時
は、部活の活動中でした、あまりの大きな揺れに、多
くの生徒は興奮状態で、中には、笑みをうかべる者も
いました。

 非日常の出来事に、密かに喜びさえ感じたのでしょ
う、これから起きることも知らずに。

 海から50メートルのわが家とは、連絡が取れませ
んでしたが、裏山に逃げたのだろうと、あまり心配も
せずに、その晩は学校に泊まりました。

 翌日、三陸鉄道を越えて、学校から1時間歩いて、
わが家に帰りました。

 三陸鉄道のトンネルを抜けると、そこには何もあり
ませんでした、報道で覚悟していた光景でしたが、そ
こには、覚悟していない事実がありました、それは、
この世界から、母と祖母が消えていたことです。

 父からそのことを聞かされても、なんのことかわか
りませんでした、父に裏の山に連れて行かれて、車の
中に置かれた母の遺体を見ました、ただ叫ばずにはい
られませんでした。

 両手で、母の顔を包んでも、手は冷えていくばかり
で、温かさが戻ることはありません。

 火葬をしなくてはいけないとわかってはいても、火
葬されて、母の肉体が炎の中に消えていくのが、たま
らなく嫌でした。

 それからの毎日には、意味が見出せず、大丈夫かと
聞かれても、何が大丈夫なのかがわからず、ただやみ
くもに、がれきの片づけをしました。

 母が津波に飲まれたのは、自分と弟の学習道具を、
二階に上げてくれていた時だったと父に聞かされて、
母に申し訳ない気持ちで一杯でした。

 自ら、命を絶たずにここまで来たのは、母や祖母の
ために、故郷の復興に務めるためです、大船渡を、も
とのままの町ではなく、災害に強い魅力的な町にする
ために、大学で建設工学を学びたいと思います。

 人々の心から、東日本大震災を風化させない、私た
ちの経験を発信することで、今後も地震は止められな
くても、地震が起きた時の被害を少なくは出来る、そ
れが、今回の教訓を生かすことになります。

 心の中に、永遠に居続ける母とともに、強く生きて
いきたいと思います。

 細かい部分に、言葉遣いの違いがあるかもしれませ
んが、お二人の話は、おおむねこうした内容、こうし
た流れでした。

 想像もできないような、辛い体験を乗り越えた彼ら
の強さは、並大抵のものではありませんし、彼らの中
から必ずや、次代の東北を、日本を引っ張っていくリ
ーダーが出てくると実感しましたが、まずは、10年
後に、もう一度彼らに再会したいものです。

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2012/03/07

現代版滝の白糸

 渋谷の喫茶店で、両手にコーヒーとミルクのポット
を持ったお姉さんの、カフェオレづくりの技を拝見し
ました。

 この日は、ドコモショップで、妻のスマホを探した
後、お茶でもしようかと、近くのデパートの中にある
喫茶店に入りました。

 メニューを開くと、いずれも高級感漂うお値段でし
たので、無難なところでアイス・カフェオレを注文し
ますと、まずは、アイス・キューブの入ったグラスが
二つ、テーブルの上に置かれます。

 どうなることかと思って待っていますと、両手にポ
ットを手にしたお姉さんが、登場しました。

 にこやかにほほ笑むお姉さんが、コーヒーとミルク
の割合はどういたしましょうか、と尋ねてきます。

 コーヒー濃いめか、それともミルク多めかという意
味だとわかって、妻ともども五分五分でお願いします
と、では奥様の方からと言って、妻のグラスの上に、
両手に持ったポットを構えました。

 その姿勢で、コーヒーとミルクを注ぎ始めますと、
そのまま両手を上に持ち上げていきます。

 そのポットが、グラスから30センチ余りの高さま
で持ち上げられますと、さながら、滝の白糸の水芸の
ように、コーヒーとミルクが、グラスの中に注ぎ込ま
れました。

 しばらくすると、グラスの中には、アイス・カフェ
オレが出来あがります。

 この技は難しいんですかと、お姉さんに聞いてみま
すと、とても難しいので、何度も練習しないとうまく
いかないと言います。

 えっ、そんなに難しいのかと思って、理由を尋ねま
すと、グラスの中の氷に直接あたると、コーヒーやミ
ルクが跳ね飛んでしまうので、アイスのすき間に注ぎ
込むのがコツなのだと、教えてくれました。

 なるほど、ではこの技を身につけると、若干でも時
給は上がるんですかと、重ねて尋ねますと、「上がり
ます、若干ですけどね」と、ちょっとはにかんで答え
てくれました。

 そうか、その若干のアップ分が、料金にも上乗せさ
れているんだろうなあと邪推をしながら、現代版滝の
白糸の作品を堪能しました。

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2012/03/06

大隈公恐るべし 

 花粉の到来に備えて、表参道でユーカリの製品を買
いながら、昨年、明治神宮の神官さんにうかがった、
大隈重信にまつわる話を思い出しました。

 花粉症の経歴が長いため、これまでにも、漢方やら
注射やら様々な療法を薦められましたが、毎年その場
しのぎで過ごしてきました。

 ところが、今年は、ツイッターのフォロワーの方か
ら、ユーカリの香りが効く、しかも、あなたの家から
も遠くない、表参道のアロマショップで手に入ると、
推薦のつぶやきをもらいましたので、表参ブラのつい
でに立ち寄りました。

 このお店は、昔はブルーダニューブの陶器など、雑
貨類を扱っていましたが、今は、アユルヴェーダのア
イテムや、ハーブのアロマ類などを手広く商っていま
す。

 棚の整理をしていたお姉さんに、「ユーカリは」と
尋ねる間もなく、飛んで火にいる虫のごとく、ユーカ
リ製品の前に導かれて行きました。

 そのお導きに従って、ユーカリのティーバックと、
スプレーを買い求めましたが、その際、表参道と言え
ばと、ふと思い出したことがありました。

 それは、去年、明治神宮の神官さんから聞いた、神
宮の森の造成にまつわる話です。

 明治神宮の建設にあたっては、大正2年に神社奉祀
調査会が立ちあがって、場所を現在地に定めた後、境
内にどんな森を造るかが議論されました。

 その議論の中で、森林の専門家は、全国から様々な
種類の樹木を取り寄せて、自然に近い森を造ろうと提
案したのですが、この案に対して、杉の木を植えよう
と反論したのが、調査会の会長を務めていた大隈重信
でした。

 というのも、大隈公は、伊勢神宮を取り巻く、荘厳
な山の風景をイメージしていたからで、明治神宮も、
天に向かって真っ直ぐに伸びる、杉の木立でおおうべ
きだと考えたのです。

 二度・三度とやり取りがあったあげく、ついに大隈
公が折れて、現在のような、常緑樹と広葉樹の混じっ
た森になったとの話でした。

 もし、大隈公の意見が通っていたら、今頃の季節、
表参道には花粉が吹き荒れて、ぶらり散歩どころでは
なかったと思うと、手にしたユーカリ製品が、一層い
とおしく見えてきました。

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